第46話 戦闘準備
王都カイザランティアに入ると、神殿に向かう水路に舵を切る。その分岐点で、船に合図を送る人物がいた。ソラリアム・ムールアトである。
船の速度を落とし、ジョルジェが対応にあたった。
「エリアノア様。ソラリアム・ムールアトの拝謁をお許しください」
「ホルトアの手紙にあった方ね。船に上がっていただいて。その後は予定通りの船着き場へ」
「かしこまりました」
ソラリアムはエリアノアに簡単に挨拶を済ませると、すぐに本題へと移る。
「火急の時なれば、非礼お許しください」
「構いません。先を」
「は。おそれながら、こちらが解毒の薬にございます」
瓶を近くに侍るマルアへ渡す。彼女は白い絹のハンカチでそれを包み、エリアノアへと届ける。瓶の中には、薄い水色の粉が入っていた。
「水に溶かし体に触れさせれば、皮膚から吸収してすぐに解毒効果がございます」
「即効性?」
「仰る通りです。水に溶ければ透明になり、速度としては、遅くとも三十秒」
「まぁ早い。他の者への影響は」
「あの花の成分にのみ反応する薬にございますれば」
まっすぐにエリアノアを見つめる瞳は、真剣だった。揺るぎのない眼差しに、エリアノアは表情を緩ませる。
「ありがとう。これは確かに私が預かりました。神殿に入る時には、あなたも側に」
「私も、ですか?」
「ええ。あなたがムールアト伯爵家という箱を捨てるのであれば、民にその姿を見せておきなさい」
「──感謝申し上げます」
やがて船は再び速度を落とす。少し先に神殿が見えたところで、細い水路へと進む。
神殿の敷地から一キロ圏内に、仕立て屋ユーリア・テイラーの店はあった。その店の裏手には、小さな船着き場がある。その先端に、ドミニク・ユーリアが待っていた。
「久しぶりね、ドミニク」
「エリアノア様にはご機嫌麗しく」
「ふふふ。支度は?」
「万全にございますよ。エリアノア様には完璧なお衣装を──ああ、そちらの殿方の皆さまは、他の者がご案内いたします」
店の奥で全員の身だしなみを整える。
エリアノアの髪の両サイドは真珠と共に編み込み、後ろ中央の髪の毛は美しいウェーブが目立つように残した。光が当たると髪の毛に、まるで海の泡が留まっているかのように輝く。ドレスは白いエンパイア。上半身はレース地でできており、胸から下の切り替えは、繊細で柔らかなチュール。その一部が両サイドで摘ままれ、美しいドレープを作っていた。肩口からはエンブロイダリーがあしらわれたワットトレーンが流れている。
神殿での儀式の時に巫女が身にまとう姿だが、デザインも生地も、それ以上のものであった。
あえてジュエリーの類は他にはつけず、エリアノアの美しい素肌を見せる。
「エリアノア様。まるで女神のようですわ」
「今はそう見えてくれた方が良いもの。声の調子はどう思う?」
「十分にございます」
ドミニク・ユーリアの笑顔に、エリアノアはほっとした表情を見せた。ラズロルたちの支度もすでに終了しており、店の応接室で合流する。
扉の外から呼びかけがあり、ミーシャが対応した。
「失礼いたします。馬車のご用意が」
「まぁ、もう?」
「サノファ殿下がご登壇されたようで」
ミーシャの言葉に、その場の全員が苦笑する。
「殿下は一体なにをお話しになられるのかしら」
「少々聞いてみたい気もするね」
のんきに話しながらも、エリアノアもラズロルも目は笑っていない。洗脳されている領民に、何を訴えかけるのかと心配なのだ。
「エリー。彼らは君が、殿下とまだ婚約していると思っている」
「ええ。つまり利はこちらにあるわ」
彼らの洗脳が解かれた後も、領民の意思がどこにあるかがわからない以上、利用できることは利用せねばならない。
「その為に、ムールアトにもミランズにも、私たちのことを印象付けておいたのだもの」
「ただの良い行いだけで、済めば良かったんだけどなぁ」
「まったくだわ」
彼らを救わないといけない。それはこの国の貴族としては当然のことだ。だが、それだけではない。なにか事が起きた時には、その恩をして自分たちの味方になるように。
(手札は一つでも多いに限る)
窓から神殿を見た。そう遠くないこの場所にも、喧騒がかすかに聞こえてきた。
神殿に入り、彼らの洗脳を解く。彼らを自由にし、反乱した貴族たちと第一王子を排斥する。
それは一人でも多くの国民の前で行う方が良い。国王の正当性が増すからだ。
「さぁ、行きましょう。きっとサノファ殿下のお相手を、グラフス様とホルトアが辟易しながらしているでしょうよ」
店から神殿までは一キロもない。そこまでの道は左右に商店が並ぶ、いわゆる商店街になっている。王都の民は皆神殿の施設に避難しており、今現在そこにいるのは王都軍の兵士だけだった。
(いつもは明るく華やかな街なのに)
その灯は消え、ひっそりとしている。反対に、神殿に近付けば近付くほど、喧騒は大きくなった。
「サノファ殿下!」
「第一王子に栄光を!」
その繰り返しに、エリアノアたちは眉をしかめる。
「まさに操り人形だな」
「なんと愚かな──そう言えば、その花はどうやって彼らに? 何かを無理矢理飲ませたとか?」
エリアノアの疑問に、ソラリアムが口を開いた。
「おそらくは香でございましょう。甘く強い、むせかえるような香りがいたします。空気に舞うと、少し赤い色が見えますので、万一の時にはご注意ください」
「赤い……。途中に乗り捨てられていた船」
「ああ。窓の端が薄く赤に染まっていた。おそらくあの中で」
(むせかえるような香り。殿下がグリニータ伯爵に会いに行った時の手紙に、焚き染めしてあったのも、きっとそれなのね)
花の香りの持つ暗示、洗脳効果が功を奏したのであろう。サノファは元来の愚かさと相まって、するりと彼らの手の中に落ちていった。
(──哀れね)
エリアノアは初めて、サノファを心の底から哀れに思った。
生まれた時から恵まれた環境であり、学ぶことも、己を律する機会も多く得られてきた。責任と義務から逃げるのであれば、他の方法もあったであろう。だが、それらと引き換えに得られるものを享受するばかりで、それ以上の事を考えなかった愚かな男。
(それでも)
近くでエリアノアが助けていれば、生きていけた。だがそれをも、彼は捨てたのだ。
愚かさと引き換えに手に入れたのは、傀儡となることだった。
「到着です」
ソラリアムの言葉と共に、外から扉があけられる。先に降りたラズロルが、エリアノアに手を差し出した。
「エリー。何があっても、俺はあなたを守り続けるからな」
「ふふ。何度も言っていただいたわね、その言葉」
「言いすぎたか? でも、本心だよ」
「ありがとう」
(その言葉だけで、もう十分だわ)
これが終われば、エリアノアは第二王子と婚約をする。少しずつ心に折り合いをつけながら、彼女は前を向こうとしていた。
馬車から降りると、目の前には広場に続く門。
多くの領民が騒いでいた。その人数の多さに、言葉の荒さに、少しだけ足が竦む。
そんなエリアノアの様子を見て、ラズロルが彼女の手に触れた。
「ラズ?」
「大丈夫。今ここにいるのは、ムールアトとミランズの領民だ。思い出してごらん。彼らは皆、君の味方だ」
その言葉に、緊張が解ける。
そうして、最初の一歩を神殿の敷地内へと踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます