第37話 第一王子の逃走

 カイザラント王国の第一王子サノファ・トゥーリ・カイザラントは、正妃の夜会の事件からずっと、自身の宮で謹慎を言い渡されていた。

 王都カイザランティアにある王城には、王、正妃、側妃、第一王女、第一王子の宮がある。王の宮を正面に左右に各妃の宮があり、それぞれを母とする子の宮が続く。

 第一王子であるサノファの宮は、王宮の西の一角にあった。居室として正寝室、控寝室、広間の中に居間と書斎があり、他に従者の間、接遇の間、執務室、つなぎの間、テラス庭園と水回りを有する。その中であれば自由にいられるのだが、それ以外の場所へは出歩くことを許されていない。


「いつまでこうしていれば良いんだ」

「陛下からのお言葉までお待ち下さい」

「もうその言葉は聞き飽きた。せめて父上に会わせてくれ」

「殿下のご希望は、奏上してございます」

「ああ、もう良い。下がれ」

「は」


 側仕えの者を下がらせる。サノファがエリアノアへの手紙を託した後、彼の側近であったイルダは顔を見せていない。サノファが側仕えに問うても「存じ上げません」の一点張りだった。

 二階の高さにあるサノファの部屋の窓から外を見る。ゆったりとしたソファには、エリアノアが刺繍した膝掛けがかけられていた。彼はそうした好意を、ごく当たり前に享受し続けてきたのだ。そのことに未だに気が付いていない。


「エリアノアからの返事が一向に来ないのは、まだ私とミレイの仲を妬んでいるのか。はっ、くだらない女だ。側妃で我慢しておけば良いものを」


 彼にとって閉塞した空間に居続ける間に、サノファの思考は再び己の地位に絶対の自信を持つところへ、辿り着いていた。エリアノアが隣に立たないことによる、立場の危機など忘れ去っているようでもある。彼にとって寄る辺となるものは、今はもうそれしかない。


「失礼いたします、殿下」


 扉の外から衛兵の声がする。


「許す、中に入れ」


 サノファの声に、居室の入り口を守る衛兵が扉を開いた。すぐ横に背の低い、年の若い女官が立つ。髪の毛を一つにひっつめ、女官のお仕着せを着た彼女は、妙に印象が薄い。サノファの興味を引くような容貌ではない女官に、小さく鼻を鳴らした。


「何用だ。私は忙しい」


 嘘である。本来第一王子がするべき仕事は、あの日以来一切まわってきていない。使っていない執務室の机は、女官たちが掃除をしなければ、あっという間に埃だらけになっていただろう。その女官もこれまでは部屋付きの者がいたはずなのに、今は癒着を懸念してか、サノファが見たことのない者たちが、毎日交代制で就任していた。


「側妃殿下よりのお届け物でございます」

「なに、母上から? 構わん。近くに来い」


 女官は礼をとったあと、サノファへと籠を手渡す。中には果物とパンが入っていた。


「……なるほど。確かに預かった。母上には礼を」

「お言葉、承りました」


 サノファが手を軽くあげると、女官と衛兵はその部屋を辞する。静かになった部屋の中、サノファは窓を閉じカーテンをかけた。

 籠の中からパンを取り出し、二つに割る。その中に手紙が入っていた。


「秘密裏に手紙を届ける方法としては、あまりにも古典的だが」


 喉を鳴らし笑みを漏らす。その手紙を開くと、サノファの瞳の色が強くなる。


「父上には、、身をもってご理解いただくしかないな」


 書斎の方を見ながら、サノファは口の端をわずかにあげた。



   *



 王城の外、西の森の近くに一台の馬車が闇に紛れて止まっている。旅人が乗るような安く古ぼけた馬車に、闇夜に目立たない黒い馬。


「殿下、こちらにございます」

「そなたが」

「グリニータ伯爵より、この命を仰せつかっております。ささ、早く中へ」

「ああ」


 黒いマントで身を隠すサノファは、同じく黒い馬車へと乗る。常時であれば、彼がけして乗ることのないような格式の馬車ではあるが、彼の信じる再起の為には何よりも格式が高く思えるものであった。


「手紙を寄越したあの娘は」

「すでに城より下がらせてございます。殿下の優しいお心遣い、痛み入ります」

「そうか。それは良かった。知り合いなのか?」

「私の娘にございます」

「ほう。私が王となった暁には、私付きの女官として推挙しよう」

「有り難き幸せにございます」


 灰色の目を細め、サノファが笑う。それを唯々としているのは四十を超えたほどの男だ。グリニータ伯爵家に代々仕えている庭師であった。

 庭師は屋敷を訪れた客に庭を案内する必要がある為、貴族や王族に対する礼儀を身につけている。その為、この役を与えられたのであろう。


「それでは参ります。同じ馬車にご一緒する非礼、お許しください」

「許す」


 薄く笑い、サノファは男を見た。

 黒い髪は短く切りそろえられている。目は細く、確かに昼間の女官と同じような地味な顔の作りだった。

 その庭師が、手にしている護身用の剣で天井を三度突く。それを合図に、馬車はゆっくりと走り出した。

 西の森は城郭の外すぐに広がっている。サノファの──第一王子の部屋から、密かに逃げる為の隠し通路の出口が、この西の森であった。


「ミレイに話していたことが、こんなところで役に立つとはな」


 エリアノアよりも自分が大切である証が欲しい、と強請られた時に教えた秘密だった。側妃の子としてあの宮を使う者だけが知る秘密は、これまでは正しく密やかに伝えられてきた。だからこそ、今このカイザラント王国で第一王子の部屋の隠し通路の出口を知る者は、サノファと、そしてミレイだけであった。


「そうだ。ミレイはどうしている」

「ミレイ様は現在我らと共に、密かに構えている屋敷におられます」

「私もそこへ?」

「はい。殿下には不釣り合いとお感じになるかもしれませんが、しばしご辛抱いただければ」

「あの窮屈な宮にいるより、よほど良いわ」


 暗闇の中、万一のことを考えてか、馬車は大きく迂回をする。そうしてやがて、彼らの秘密裏に構えている屋敷へと到着した。


「殿下」


 馬車が停まると、扉の外にはグリニータ伯爵が待ち構えている。白とグレーの入り混じった髪は、随分と薄い。鼻の下の髭も、髪と同じように白色が混ざっていた。


「ザークエンドル・グリニータと申します。どうぞ以後お見知りおきを」

「おお、貴殿が。世話になるぞ」

「有り難きお言葉。どうぞ中へ」


 屋敷は伯爵の家としては小さいが、騎士の家程度の広さはあった。

 中は手入れされており、狭いながらも居心地の良い邸宅になっている。エントランスに飾られている花は、案内人の庭師の仕事だろう。サノファの印である八重のバラが、美しく飾られていた。


「サノファ様」

「ミレイ!」


 エントランスの奥の扉から、赤い髪を結い上げ、胸元を大きく開けた赤いドレスを着たミレイが駆け寄る。サノファが来るということで、支度をしていたのだろう。化粧は湯上りのような演出でしどけなさを、胸元や襟足を美しく見せたドレスで艶やかさを見せつけている。


「相変わらず美しいな。久しぶりだ。今夜は私の部屋に来るが良い」

「サノファ様……。嬉しゅうございます。ゆっくりとを」

「ああ。ゆっくりをしようじゃないか」


 サノファの言葉にミレイはカーテシーを見せると、その場を下がる。代わりにグリニータと、もう一人、ミレイの父親が現れた。


「ミレイの父、ホルジュ・ムールアトにございます」

「殿下、どうぞあちらのお部屋に。ムールアト卿も」

「ああ。これからのこと、貴殿らのことをゆっくりと聞こうではないか」


 彼らに促され、サノファは奥の間へと向かう。

 この瞬間、サノファはもう二度と後戻りができなくなってしまったのだった。

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