第36話 秘密の場所

 早朝に起きて、水色のエンパイアドレスを身に着ける。髪の毛は低い位置で緩やかに束ね、そこに水の女神の花と言われるカイザールを挿した。

 領主の館の奥にある神殿へ侍女二人と向かう。神殿の奥の入り口で、侍女は神殿巫女にエリアノアを任せた。


 神殿巫女が内側からエリアノアを迎え入れる。彼女たちは髪を一まとめに団子状にし、共布のヴェールをかけ深い青色のエンパイアドレスを着ていた。一般的な神殿巫女の装束はこの青色で、その神殿の責任者となる巫女は、水色を身にまとうことになっている。

 ただし儀式の際には白の装束となる。エリアノアも神殿巫女も、素足だ。

 しゅ、しゅ、と衣擦れの音が渡り廊下に響く。渡り廊下の左右には水を湛えた池が広がる。廊下の正面奥には滝が流れ、衣擦れの音と水の落ちる音が、まるで何かの音楽のように共鳴し合う。


 滝の前を左に曲がる。そのまま滝の端まで進み、扉を開けた。神殿巫女たちはそこを通り逆側へと向かう。エリアノアだけはその手前で右側に曲がり、滝の裏側に入り込んだ。滝の中央にあたる場所に扉がある。その扉の前で小さく祈りを捧げた。

 引き戸になっているその扉を開けると、その先も同じように滝がある。ただし、中央を分断して、左右にわかれていた。中央は階段になっていて、エリアノアはそこを一段一段、のぼっていく。十段ほどあるそれをのぼり切ると、中央に祭壇が置かれていた。


 祭壇の中央上部からは、水をイメージした形のシャンデリアが下がる。それらは蝋燭を灯す場所が作られておらず、全てが光る石で飾られていた。その真下、祭壇の中央には水晶でできた、美しい女神の像が置かれている。女神像が手にしている瓶からは、光る水が流れ落ちていた。

 エリアノアはその祭壇の前へとまわり、跪く。


「水の女神カイアルファトゥールにこいねがい奉る」


 エリアノアの声が教会に響く。先に扉を進んでいた神殿巫女たちは、祭壇の階下にある祈りの場で同じように跪き、エリアノアと共に祈りを捧げた。

 巫女だけがいる空間で、厳かに祈りは続けられる。三十分ほど祈りの言葉が続けられた後、ウォーターハープの音が響いた。あわせて神殿巫女の詠唱が始まる。エリアノアは主旋律を朗々と歌い上げた。



   *



「エリー、今日は午後休みなんだって?」

「ええ。朝、祈りの勤めを果たしたので、午後は労働をしてはならないの」

「最近働き詰めだったし、ちょうど良いね」


 今日は、翌週に迫った収穫祭の為の祈りの日だった。その祈りの中心となった巫女は、一日大きな労働をすることを禁じられている。その為、エリアノアは今日一日職務につくことはできない。


「ねぇラズ、良かったら私のお気に入りの場所に一緒に行かない?」

「連れて行ってくれるのかい?」

「勿論よ。ミーシャ、船の用意をして」

「かしこまりました」


 すぐに小型の船が用意される。マルアの代わりにジョルジェが付き、四人で船に乗り込んだ。

 メイアルンは水路が充実しており、領民が生活の足に使っている乗り合いの船も数多く存在している。エリアノアたちが乗る船が通り過ぎると、それらに乗っている領民が嬉しそうに手を振った。


「エリーは愛されているね」

「だったら嬉しいわ」


 幸せそうに笑いながら、エリアノアは窓の外を見る。

 あちらこちらに、収穫した後のライシアが干されていた。女性が持つ大きなカゴには、溢れんばかりの果実が。

 水路の上にはたくさんの提灯が準備され、家々の扉にも同じような提灯が下げられていた。

 街中が間もなく行われる収穫祭に向けての支度で、どことなく浮かれている。


「この季節がとても好きなの。皆が一年頑張ってきたことが、実を結ぶでしょう。港もね、ちょうどこの時期にはザルナッツがたくさん網にかかって、それはもう見応えがあるのよ」


 ザルナッツは秋将軍と別名を持つ魚で、この時期が一番身がふっくらとし、脂も乗っていて美味しい。メイアルンの一番大きな港であるゾルフェ港は貝が有名だが、ザルナッツの漁獲高は毎年カイザラント王国一だ。


「収穫祭では、色んなものが食べられそうだ」

「そうよ。楽しみにしておいてね」


 目を細めて唇に人差し指をあてる。細く白い指先には、美しく手入れされた薄桃色の爪がのる。その指先に、ラズロルの視線が吸い付く。


「……ラズ?」

「エリー。あなたのその指先に触れることを、許していただけないだろうか」

「──許可します」


 ほんの少しだけ考える風を装ったあと、エリアノアは女王のような気高さと、幼子のようないとけなさを危ういバランスで見せながら応えた。

 エリアノアの言葉に、ラズロルが彼女の口元にある手をそっと包み込む。そうして、恭しく己の口元に運び、その指先に口付けをした。

 船がカーブに差し掛かり、わずかに揺れる。


「きゃっ」

「おっと」


 揺れてバランスを崩したエリアノアの上半身を、隣に座るラズロルがその手を絡め取り引き寄せた。畢竟彼女の体はラズロルの腕の中に収まってしまう。


「あ……。ご、ごめん……なさい」


 慌てて体を引き起こそうとするが、ラズロルの腕が緩まず身動きができない。


「ラズ……? あの……」

「──すまない。もう大丈夫?」

「ええ。ありがとう」


 エリアノアのその声で、体をいだく腕が解ける。ようやく体を離すことができた。


(まるで抱きしめられているみたい)


 早まる心臓を落ち着かせようと頑張ってみるが、目の前のラズロルがじっとエリアノアを見つめてくるからたまらない。


(もう。全然落ち着けない……。あんまり見ないで……)


 耳まで赤くなっていることに、エリアノアだけが気付かないまま、船は目的地に到着した。

 船は速度を落とし、大きな洞窟に入っていく。


「ここ?」

「そう。この先がとても美しいの」


 洞窟の入り口では、高い透明度の水が太陽の光を受けて、キラキラと輝く。

 奥へ行くにつれ、だんだんと天井の高さが低くなる。太陽光が届かなくなる頃、突然青緑色の光が天井から降ってきた。

 それはまるで星が浮かぶ夜空のように見える。細い糸のようなものがいくつも天井から垂れ下がり、その先端も、それ自体も青緑に光っていた。


「これは……。ジャールナイブの光?」

「もう何千年以上も続く洞窟の浸蝕の中で、ジャールナイブや光苔が自生してきたみたいなの」


 ジャールナイブとは蛍の一種で、餌を引き寄せる為に自ら光を放つ。細い糸は餌をひっかける為の、蜘蛛の糸のようなものだ。その奥には光苔が黄緑色に光っていた。

 洞窟内はひんやりとしており、海水もあがってくる場所のせいか、壁面の一部では塩が白く結晶化している。その塩の結晶にジャールナイブと光苔の光が反射していく。さらには水面にもその光が映り、まるで銀河の中にいるような錯覚に陥った。


「これは本当に美しいな」

「そうでしょう。私のお気に入りの場所よ」


 領主の私有地となる水域の為、基本的に領民は来ない。立場的に一人で来ることはできないが、それでも一人になりたいときに、エリアノアは良くここに、侍女や護衛たちと来ていた。例え複数の人間がいたとしても、この場にいると一人でいるような気持ちになれたのだ。


「このメイアルンで採れる光苔は、光の透明度が高いから、神殿での儀式によく使われるの。各領地の神殿や王都の大神殿で女神の水瓶から落ちる水が光っているのは、メイアルンの光苔が瓶の中にあるからよ」


 どんな宗教にも、人心をまとめ上げる為に仕掛けは必要だ。この国の場合は、その一つが暗闇に光る美しい水。

 メイアルンは国土の北に位置し、水の透明度がとても高い。その為美しい光苔が手に入る。


「儀式に使われる種類の光苔、この奥のものもそうなのだけどね。名前をカイアリアと言うの」

「女神の大地を作るもの、という意味か」

「水の女神カイザランティアが地を安寧へと導く為の、一つの鍵だわ」


 いたずらっ子のような表情を見せて笑う。


「エリー。洞窟の中は少し肌寒いだろう」


 洞窟の中だからか、いつもよりも幼さを見せるエリアノアの顔を、ラズロルは優しく微笑み見つめる。そうして、自らが着ていたジャケットをエリアノアの肩にかけた。


「ありがとう。……ラズの温もりがするわね」

「──君は少し、無防備すぎる」

「え?」

「いや、何でもないんだ。俺の独り言だと思ってくれ」

「おかしなことを言うわね、ラズったら」


 近くでやりとりを聞いていたミーシャとジョルジェが、顔を見合わせて苦笑いをしたことに気付いていないのは、やはりエリアノアだけだった。


「エリアノア様、せっかくですし御詠唱をお聞かせいただけませんか」

「是非お願いしたく」


 その言葉に、エリアノアはラズロルを見る。

 にこりと微笑みながらラズロルも頷き、手を差し伸べる。


「その美しい声での詠唱、ぜひ聞かせてくれないか」


 ラズロルの手に自らのそれを重ね、エリアノアはゆっくりと立ち上がった。

 洞窟の中はとても静かで、どこかから流れてくる水の音だけが静かに響いている。


「水の女神カイアルファトゥールの御名によって」


 高く澄んだ声が、洞窟内に響く。ゆっくりとした旋律は、聞く者に心地良さを与える。反響音でジャールナイブの羽が振動し、洞窟内の光が震えているように見えた。垂れ下がる糸は揺れ、あたかも流星群が煌めいているようだ。


 干満による影響だろうか。滴る水音がわずかに水量を増し、ひたひたと壁面を濡らしていった。それはまるで、朗々と謳われる水の女神への讃美に、水が喜んでいるようにも感じる。


「女神の御胸にかないますよう、祈り奉る。クールーン」


 最後の祈りの言葉を静かに口にすると、エリアノアは祈りの最後に行う礼を見せ座った。ふと三人の方を振り向けば、全員の瞳に涙が浮かんでいる。


「どうしたの、皆」

「エリー、君はすごい」

「エリアノア様の詠唱は本当に素晴らしいですわ」

「つい、涙が……」


 それぞれが涙を拭いながら、微笑んだ。心を動かされたその声の持ち主に、敬愛の瞳を渡す。それを受け止めたエリアノアは「まぁ」と小さな声でつぶやいた。


「ラズが、ミーシャが、ジョルジェが、そうやって感じたのは、カイアルファトゥール様の御心よ」


 巫女然とした笑みを浮かべると、その美しい瞳を洞窟の中の青い星へと向ける。


「ラズと一緒にここにいられて、幸せだわ」

「エリー」


 きゅ、と肩にかかるラズロルのジャケットを両手で押さえ、エリアノアは皆の方を振り向く。


「さぁ。そろそろ夕餉の時間ね。戻りましょうか」


 彼女の声に、船は再びゆっくりと領主の館へ水路を辿り始めた。

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