第22話 船中にて
──このままではダメね。
紅茶を口に運びながら、エリアノアは瞳を閉じる。
誰かを好ましいと思う。その気持ちに歯止めをかけなくて良い状況になったことで、彼女は戸惑い続けていた。
(彼を好きになったこと。それは心の内に留めておかないと。ラズが私の婚約者になるとは、限らないから……)
すでにエリアノアの恋は始まっていて、それは傍から見たときに明らかだと言う事に、彼女は気付いていない。
いや、恋が始まっていることは自覚している。しかし、周りがすっかり気付いているとは、思ってもいなかった。
知らない間に心を侵食していく。
雷鳴轟く瞬間など来ない。
恋がこんなにも穏やかに始まることを知り、エリアノアはどうしてか、そのことに安堵を覚えてもいた。
(しっかりなさい、エリアノア。今から向かうのは、他爵の領地。統治の仕方、異常がないか、……そしてグリニータ伯爵との関わりが何かないか。それを確認しないといけないのに、ぼんやりなんてしていられないでしょ)
己の為すべきことを思う。幼い頃より躾けられた、持てる者の為すべき事という考え方が、彼女の気持ちを奮わせた。
「エリー、そろそろ王都を離れるよ」
ラズロルの言葉に、窓の外を見る。いつしか都の喧騒からは離れ、木々が増えていた川岸。その一角に領地の境目を示す、マジャリの木が植えられていた。
マジャリは明るいオレンジ色の花を咲かせる。花を落とすと、すぐ下に膨らんでいた、同じくオレンジ色の実を膨らませ、実が落ちると不思議な事に、またすぐに花を咲かせる。
一年を通してオレンジ色の花か実をつけているので、領地の境目を知らせる木として、全土で植えられていた。
「ここから先が、ツァルセン。ツァルセン子爵の領地ね」
「先々王の御代に覚えめでたく、男爵から子爵になった方だったか」
「ええ。彼は当初、男爵子息の立場で官吏として働いていたけれど、行政の改革を父親の領地で試したあと、国政の場で成功させたそうです」
国政の改革は成功すれば良いが、失敗してしまうと、多くの国民に苦を強いることとなる。万に一つの失敗を避ける為にも、事前に各自の領地で試す必要がある。
貴族に与えられた領地運営は、国土運営の縮図。この国では、貴族やその子息が国の政に携わる責の一つとして、領地の健全な運営が任されているのだ。
(あれ。どうして、ミンドリアルの公爵子息が、先々王時代の男爵の事を知っているのかしら。政に関わる部分だから学んでいるとか?)
自国の歴史であればこそ、エリアノアが知っている事がある。ミンドリアルの男爵の出世を、エリアノアが知っているかと問われれば、否やと答えるだろうし、それを恥じる必要もない。
(うぅん。この国の歴史を知っている、ということはやっぱり、婚約者候補ということなの?)
公爵令嬢の婿として養子に入るのであれば、事前にカイザラント王国の事を学んできていても不思議はない。
(まぁ今すぐに答えが出るものでもないし、もう少し答え合わせはお預けかな)
彼が婚約者候補、または婚約者であるとわかれば、憂いは大きく一つ減るのだ。しかし、この場でいくら考えても、答えが出る類のものではない。
エリアノアやホルトアの婚約については、彼らの両親、あるいは国王夫妻が決めるものだ。今、彼女に何も知らされていないということ自体が、何か考えがあっての事なのだろう。
無駄なことに労を費やす必要はない。エリアノアは、これ以上考えることを今はやめる。
「美しい森だね」
「ええ、良く管理されているわ」
隣で微笑みかけるラズロルのライトグレーの瞳が、光を受けて明るく輝く。
(どこかで見た覚えのある光……)
目を細める。そうして、明るく差し込む、木々の向こうから届く光に目を遣り、エリアノアは再びゆっくりと紅茶を飲み込んだ。
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