忘れられた言葉

sui

忘れられた言葉

世界の果てに、“忘れられた言葉”を集める図書館があった。

けれどその図書館には、本は一冊も置かれていない。

代わりに、無数の扉だけが並んでいた。


扉を開けた者は、その中で“かつて自分が失くした言葉”と再び出会えるという。

だが、扉を開くことは簡単ではなかった。鍵は誰の心の中にしか存在しないからだ。


少女は長い旅の果てに、図書館に辿り着いた。彼女は“ある言葉”を探していた。

誰にも理解してもらえなかった、幼い頃にだけ感じていた想い。

いつからか口にできなくなり、心から消えてしまったその言葉を。


彼女は幾千もの扉の前に立った。

けれど扉は開かない。自分が失くした言葉を思い出せなければ、鍵は見つからない。


途方に暮れたとき、ある老人が少女に声をかけた。

「君が探しているのは、言葉じゃないかもしれない。」


少女は首を振った。「私は、言葉を取り戻したい。」


老人は静かに答えた。


「では、なぜその言葉を失ったとき、涙を流したのかを思い出すんだよ。」


少女はふと立ち止まり、自分に問いかけた。

失くしたのは“言葉”ではなかった。

失くしたのは、それを伝えることのできる誰かだったのだ、と気づいた。


その瞬間、扉は音もなく開いた。


中には誰もいなかった。

けれど、空気はあたたかかった。

扉の向こうにあったのは、“何も言葉にしなくても理解してもらえた頃の自分”だった。


少女は泣いた。けれど今度は、涙に名前があった。

それは“帰る”という名の涙だった。


言葉は、記憶ではなく“誰かと交わした時間”そのものだったのだ。


そして彼女は扉を閉じた。もう探す必要はなかった。


本のない図書館の中に、またひとつ“思い出された言葉”が生まれた。

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忘れられた言葉 sui @uni003

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