誰も
@sainotsuno
第四十九話
阿僧祇を救ったのは霊砂現象だった。彼の胸ぐらをつかみ息を苦しくさせていたいじめっ子の手が血も傷もなく消えた。そうして、解放された阿僧祇は地面に舞う砂塵ごとたくさん息を吸った。
「くそ、霊砂だ!」
手を失ったいじめっ子がそう言いながら後ろによろけた。今度は彼は右足を失い、立っていられなくなる。まるで、空間に潜む透明な怪物が子供たちの身体を部分ごとにえり好みしながら食べているみたいだった。だが、子供たちには痛みも苦しみもなかった。まるで、髪の毛が一本だけ自然に抜けるのに気が付かないのと同じように子供たちは自分の手足や耳やわき腹が虫食いみたいに無くなっていくのを感じなかった。しかし、耳を失った者は音が聞こえないし目を失った者は光が見えないし足を失った者は立てないし手を失った者は阿僧祇を殴ることができなかった。だから「ちっ」と舌打ちしながら大勢のいじめっ子たちは帰っていくのだ。「死ねよ」という捨て台詞を残して。
もう、何千何万回と浴びせられたその言葉はいつも新鮮な針のように阿僧祇の心に傷穴を開けた。
恒河沙は足を失った仲間の引きずるような足跡から砂を一つまみ持ち上げた後、こちらをにらみつけた。
「おいお前、お前早くアレしろよ。お前がアレしたらみんなが喜ぶぞ」
「あ、あれって何さ……」
「アレはアレに決まってるだろ。わかるだろ?」
「そんな、はっきり言ってくれないとわからないよ」
「だーかーらーアレだよアレ!」と恒河沙はそう言って足元から霊砂を一握り掴んでそれを阿僧祇に投げつけた。それは、阿僧祇の歪んだ頬の腐ったような色をした肌を輝きの粒粒で飾った。霊砂は粒子状の細かい砂で地上の星のように輝いていた。
「砂でも顔に塗っておいたらどうだ?そうしたほうが、お前のそのなんだ……わかるだろ?」
「わ、わからないよ」と困惑する阿僧祇の頭を恒河沙が掴んで無理やり跪かせた。「さあ、やれよ!」と彼は脅しつけて来る。何を?阿僧祇は混乱しながらまるで溺れているみたいに砂を掻き集めそれをひたすら肌に塗りつけた。砂は柔らかく細かくはあったが阿僧祇は必至さゆえに力加減が利かず、肌を傷つけてしまった。
「違う違うそうじゃねえよ!」
と恒河沙はとげとげしい声で叫びながら阿僧祇のお尻を蹴っ飛ばし俯けにさせた。そして、彼は足で砂に小さく弧を描きながら去っていった。去り際「お前はガギgiヅデドだ」と彼は吐き捨てていった。その声はまるで火を纏っているかのように熱を帯びていて阿僧祇は「熱っ」と耳を抑えた。なんだこれ。とにもかくにも阿僧祇は恒河沙の足音が聞こえなくなるまでじっと砂に顔を埋めて待った。
” 霊砂現象。それは、霊砂と言われる粒子が音もなく湧き出たみたいに現れる現象である。もし、あなたや周りの人が頻繁に物を無くすようになればそれはこの現象の前触れである。この時すでに気づかぬ間にきめの細かい砂がちり紙よりも薄く世界に積もっている。そして、あなたや周りの人が手や足や耳や目や喉やらを血も痛みもなく失ったときすでにあなたの足はくるぶしまで砂に浸かっているだろう。
この現象の原因はいまだに解明されていない。しかし、霊砂が増える時わたくし達の物や身体は減っていき逆に霊砂が減るときわたくしたちの物や身体は満たされていく。まるで、世界が砂時計であるかのようだ。今は、霊砂が砂時計の下側で霊砂以外の全ての存在が砂時計の上側でわたくしたちが失えば失うほど世界は霊砂で満たされていく。
”
『霊砂について』より引用
だが、なぜか阿僧祇はこの霊砂現象で自分の身体を失ったことが無かった。それは、阿僧祇だけではなかった。いじめっ子のリーダー格である恒河沙やそのほかドレスシィに住む少なくない数の人たちが霊砂現象で身体を失わなかった。霊砂現象で身体を失うものとそうでない者の違いもまた不明だった。
さて、ついに恒河沙の足音が聞こえなくなったから阿僧祇は立ち上がった。阿僧祇は体中に付いた砂を手で払い落しながら恒河沙が去っていった方とは真逆に歩き出す。阿僧祇に居場所はなかった。まるで、傷ついた回遊魚のように彼は街を歩き続けた。回遊魚は泳ぎ続けないと死ぬ。
「あれ?阿僧祇じゃん?」
阿僧祇の終わりのない徘徊を呼び止めたのは阿僧祇と背丈が同じぐらいの少女だった。
「おいおい、どうした?そんなに汚れて。あ、もしかしてまた恒河沙にいじめらたの」
少女は阿僧祇の足跡を目で辿った。彼の足跡は弧が波状に連なるように連続している。
「は、はい。その通りでございます。不可思議様」
「だってさ」と不可思議は鏡を取り出して髪の毛に手櫛を入れ始めた。まわりには阿僧祇と不可思議以外誰もいない。
「え、その……あの……」
と阿僧祇が周りをきょろきょろしていると不可思議が話し始めた。
「さっきさ、一仕事終えてきたんだけれど駄目だったね。うん。そうだね」
不可思議はまるで自分と喋っているみたいだ。
「那由多のやつ、周りに仲間が多くてなかなか近づけないよ。そうそう。それに、糸厘ってやつに顔を見られてしまったからあきらめるしかなかったね。うんうん。」
不可思議は自分の手を磨くように撫でながら独り言を続ける。一方の阿僧祇はそれを黙って聞くことしかできない。
「それにしても無量大数の奴、どうしてあいつらと一緒に行動しているんだろう。やけになじんでいるみたいだったけれど……」
無量大数の名前が出てきて阿僧祇は「え?」と声をあげた。すると、不可思議が物音に敏感な蛇のようにこちらを睨んだ。
「ちょっとあんた何私を見てんのよ」
不可思議はそう言って阿僧祇に詰め寄る。
「あ、あの。ぼ、僕その……」阿僧祇はか細い声で後ずさりするしかできない。
「あんたまさか私から私を奪おうって言うんじゃないでしょうね。」
不可思議は小さな手で阿僧祇の岩のような下あごを抓った。
「い、痛いです」
「痛い?」
「は、はい」
「あ、そう」
不可思議は呆気なく阿僧祇から手を離して鏡をのぞき手櫛で髪を梳きだした。そんな彼女の肩を色鮮やかな蝶が一匹通りすぎ門の方へと捌けていった。
「……」
「……」
阿僧祇が不可思議の顔色を窺うように見てきたから、不可思議は鏡をしまった。
「あのさ、どうしたの?私に伝言でもあるの?」
「……」
「……」
「……」
「あんた、なに黙ってんのよ」
不可思議が阿僧祇を睨みつけると阿僧祇は泥の塊みたいな顔を申し訳なさそうに横に振った。
「いいから、喋りなさい」と不可思議が詰め寄ると「あの、不可思議さん。外壁の穴から蜂が出てきて、こっちに襲い掛かってきています」
阿僧祇がそう報告すると不可思議が後ろを振り返った。まるで鉄の玉見たいな大きな蜂が剛速球のような勢いでこちらに迫ってきているではないか。
「あんた、早く言いなさいよ」
不可思議はそう言ってから走り出した。だが、阿僧祇はガタガタと膝を震わせて一歩も動かない。
「阿僧祇!何してんの?」
不可思議がそう叫んでも阿僧祇は微動だにせずまるで怯える罪人のようにただ蜂の襲撃を待つのみだった。
「いいから、逃げなさい!」
不可思議がそう叫んでやっと呪いが溶けたように阿僧祇は逃げ出した。さっきまで彼の頭があった空気を蜂の針が突き刺した。「ブン」と空気が刺される音が阿僧祇の背を追って来る。
阿僧祇と不可思議は城壁に逃げ道を塞がれて立ち往生していた。それはドレスシィ城と城下町をぐるりと取り囲む外壁で反り立つ崖のように巨大だった。二人がもたついている間も黒い鉄球みたいな蜂は迫ってきていた。
「私をリフトに乗らせたい!」
不可思議がそう言った。すると、「わかりました!」と阿僧祇は頼れる奉公人のように昇降機の扉を開けた。不可思議が昇降機の籠に入ると阿僧祇は扉を閉めた。
「あんたは来ないの?」不可思議が急いた口調でそう尋ねた。
「いいんですか?」と阿僧祇が卑屈な声で尋ね返す。
「いいに決まってるでしょ」と不可思議は言うと阿僧祇の手を取って無理やり籠の中に引き寄せた。
二人がこうやってもたもたしている間にも鉄の塊みたいな蜂は迫ってきていた。レバーを引くと吊り上げ式の昇降機がゆっくりと上昇を始めた。 「ありがとうございます。」と阿僧祇が感謝の言葉を述べた。
二人を乗せた籠が外壁を引き上げられていく。すると、ちょうど蜂がさっきまで二人がいた壁の前まで追いついてきて阿僧祇の感謝の言葉を羽音で引き裂いた。
二人を乗せた籠は二本のロープによって壁を手繰りあげられていった。この昇降機は機械と言うよりは人力の様に二人には感じられた。なぜなら、時折ロープの引手が付かれでもしたかのように止まったり揺れたりするからだ。蜂のするどい羽音がさっきまで二人がいた壁の下で停滞している。どうやら、蜂は壁を登る気はないらしい。
「……」
「……」
「しゃべっていいわよ」
「……いいんですか?」
「いちいち、許可を待つのはやめなさい。」
「そ、それはできません。」
「なんで?」
「ぼ、僕は世界で最も地位の低い最低の男だからです。」
「なんでちょっと誇らしげなのよ」
「すみません」
「いちいち謝るなってば」
二人を乗せた籠が壁を嘗めあげるように上昇していく。それと相関するように陽の光が赤みを増していき二人と籠とそれを引き上げるための二本のロープが影絵のように壁に映し出される。そんな影絵が突如途切れた。なぜなら、二人を乗せた籠が城壁の頂上まで昇りきったからだ。
阿僧祇は不可思議が籠から城壁の上へ降りるのをじっと待った。
「先に出なさい」と不可思議が言ったが「いいえ」と阿僧祇は首を振った。
「私の言うことが聞けないの?」と不可思議が阿僧祇を睨むと「ぼ、僕は世界で最も地位の低い男つまり最低の男です。ですから、なにをするにしても誰よりも後からです」
「世界で最も地位が低い最低の男なら私の命令には全部従うべきでしょ?」
「そういう解釈もあ、ありますか」
「ある」
「わかりました。では、お先に」
阿僧祇は泥の塊みたいな顔を卑屈そうに伏せながら籠から城壁の上に出た。そのあとに、不可思議が続いた。
外壁の上から見える景色は圧巻だった。7つの丘はすべて銀の砂を紗のように被っていてその起伏や重なりがまるで波打つ星空のようだ。それに、時折風が吹いて輝く砂を舞い上げて空を飾った。空には赤い曲線や黄色い垂れ幕や青い宝石の散らばりみたいなカラーパたちが乱れていてまるで空は宝石箱のようだった。
「すごいね」
不可思議はそう言って自分の手をぎゅっと握り合わせた。
阿僧祇からの返事はなかった。
「あんたも何とか言いなさいよ」
と不可思議が口を開いたその時だった。
その時だった。声が上昇気流のように下から昇ってきた。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!今から霊砂で芸を見せるよ。今からあっしが霊砂の入ったこの四角い帽子をひっくり返す。するとあら不思議、霊砂は地面に輪っかを描くよ。きれいな輪っかさ」
「なんだろうね」
と不可思議は身を屈めながら外壁の下をのぞき込んだ。赤と白の縞々の服を着た奇怪な行商人が旅の一行に芸を披露しているらしかった。旅人たちの中の一人がなぜかこちらを向いた。それは、那由多だった。二人の標的。「あ、あいつだ。のうのうとこんなところまで」不可思議は恨みと憎しみのこもった目で那由多を睨んだ。
「レッツショータイム!」
ごそごそと衣擦れの鈍い音がして不可思議のお尻に強い力が加わった。不可思議はその力に押されるまま外壁から内側に放り出される。落下のスピードは恨みも憎しみもすべてを外壁の上に置き去りにして不可思議の身体を死へと加速度的に連れていく。
「僕、最低の男だから」という卑屈な声だけが落下のスピードに追い付いて不可思議の耳に届いた。
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