7

 自宅のリビング。えぴねの『夫』が神妙な顔をしている。二つ目の赴任先で出会った男で、「絶対に君を食べないから結婚しよう」と言ったので入籍した。

「やっぱり撤回していい?」

 えぴねは何も言わない。結婚して数年、当時の約束を反故にしようとする『夫』を諦めることに切り替えた。なんとなくこういう破綻を迎えることを予知していたので、取り乱すほどではなかった。

 この『夫』は、ごく一般的な感性の持ち主だった。愛する豚を食べることが幸せで、豚は食べられることが幸せであると信じているだけの。

「もう一回考え直し」

「うん、わかった」

『夫』の提案を、えぴねは途中で捨てた。静かにソファーから立ち上がった。わかった、という言葉を前向きに捉えたのか、男はわずかに明るい顔を見せる。えぴねの冷え切った声音には気づいていないようだった。

 えぴねは自室に入って、小ぶりな荷物を持ってすぐ玄関に向かう。

「…え?、おい、どこに行」

「今までお疲れ様、ありがとう」

 とろい男の反応などいちいち待たず、えぴねは出て行った。追いかけられる前に、自分の車に乗り込む。


 車は夜の山道を駆けていく。明日も出勤だが、豚が事件や事故に巻き込まれて欠勤することなど珍しくない。ただ淡々と処理され、屠殺機の履歴がひとつでも確認されればまだましな扱いだった。

 受け持つ生徒たち、職場、家族、なんとなく脳裏に浮かぶものの、えぴねにはただもうすべてが面倒だった。食べられることなく生きるだけのことが何故こんなに面倒なんだ。

 荒々しく運転しているうちに、えぴねの車は急カーブに差し掛かっていた。とっさにハンドルを切る。しかし。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る