巡礼者たちの群れ(3)
翌朝、リュックに荷物を詰めていると、アイマスクをどこかに忘れてきたことに気がついた。そういえば、2、3日前に、宿に着くなり眠気に襲われてシエスタ(昼寝)を取った。その時にアイマスクを使った記憶がうっすらと残っている。それっきり、見た覚えがない。つい先日はパスポート紛失騒動をやらかしたばかりだし、なんだかポカが続いている。残りわずかと油断せず気を引き締めないと。
外へ出ると、教会の入り口に数人の巡礼者がスタンプを押してもらおうと集まっている。僕もその列に加わった。午前8時半、こんな早朝に教会が開いているのは珍しい。2冊の巡礼手帳にスタンプを押してもらい、ほとんど使わない茶色の硬貨をすべて寄付箱に入れた。
今日も松やブナ、栗の木立に囲まれた林道を進む。ここから先は、見えないところに国道が並行して走っているらしく、ときどき国道を横切ることになる。その都度、国道は巡礼路の右側に来たり左側に来たりする。
やがて、ルーゴとア・コルーニャの県境を越えた。ここからはサンティアゴ・デ・コンポステーラがあるア・コルーニャ県。とうとう、カミーノも残りわずか60キロだ。
前方にメギドの町が見えてきた。町の起点から通りが一直線に伸びていて、その右側に黒いベル型の街灯が等間隔で並んでいる。これがまたおしゃれだ。
メギドはちょうどお昼時で(スペイン人はこの時間に昼食を食べないけれど)、レストランやカフェの呼び込みに活気がある。あちこちから、「タコあるよ! タコあるよ!」みたいな掛け声が勢いよく飛んでくる。
ピザ屋の入り口に立てかけられたメニュー看板に、「タコのピザ! おススメ! 11ユーロ」と、でかでかと書かれている。お腹が空いていたらぜひとも試してみたかったところ。テラス席には、オリーブオイルがたっぷりかかったタコをツマミにビールやワインを楽しんでいる人たちの姿が見える。あの輪に加わりたい。でも、道中では飲まないという、数日前に立てた誓いを思い出した。
町の郊外にある教会の入り口で、えらく陽気なスペイン人のお兄ちゃんが声をかけてきた。
「韓国から?」
「いや、日本から」
もう何十回と繰り返した定番のやり取りのあと、彼が自信たっぷりにまくしたてた。
「アリガトウ、アニョハセヨ、クマノコドウ」
ちょっとした間違いが含まれているけれど、まあ、それはさておくとして、「クマノコドウ」の響きは意外で興味を惹かれた。意味が分かっているのだろうか。
「セニョール、これを見てよ」
そう言いながら彼が取り出したのはA4用紙を入れたクリアポケット。用紙の両面に、挨拶だけじゃなく、「熊野古道」とか「お遍路」みたいな巡礼用語が漢字表記とローマ字表記でびっしりと書かれ、横にはスペイン語の対訳まで付いている。
ちゃんと「こんにちは」もあるじゃないか。……そして「美丽」は日本語じゃなくて中国語だ。
彼の手元にあるクリアポケットは10枚以上。それぞれがひとつの言語に対応している。カミーノを歩くために、本当に色んな国や地域から多くの人が訪れているのだ。
町と町の間隔が短いと、いつでも休憩できるという安心感があって、そのせいで逆に休まずに歩き続けてしまう。スタンプをもらいがてら、ふらっと立ち寄った教会が休憩所代わり。結局、この日は全部で4つの教会でスタンプを押してもらった。
今までに見てきた教会は閉まっていることの方が多かったのに、この辺りではどこもたいてい開いている。なんでなんだろう? 僕と一緒にスタンプをもらっていたスペイン人にそう訊いてみたら、「うーん、ガリシアは観光地だから、観光客向けに開けているんじゃないかな」という答え。なるほど、それはあり得るかも。「ツリスティコ(観光客)」と「カミーノ」をくっ付けた「ツリスティーノ(観光巡礼)」という造語がある。そのツリスティーノがガリシアには多いとダニエルも言っていた。
アルスアの町の巡礼宿に到着し、いつも通りにシャワーと洗濯を済ませた。さすが、観光客の多いガリシアでは早い時間帯から夕食をとれるレストランがいくつも開いている。前菜の「マンゴーとリンゴのサラダ」に惹かれ、そのうちの一軒に入った。
窓際のテーブルに座り、外を眺めていると、午後3時半になろうという時間にもかかわらず、たくさんの巡礼者が店の前を通り過ぎていく。今の今まで気づかなかったけれど、これもサリア以降の新しい現象だ。それまでは午後1時を過ぎると、巡礼者は路上からパタリと姿を消していた。
巡礼者たちの姿を目で追いながら、彼らの中に知った顔が一人もいないのがちょっぴり悲しい。サムエレ、リカルド、レア、ダニエル……。みんな、今どこを歩いているんだろう? もうサンティアゴに到着した仲間もいるんだろうか。
突然、元米海軍のデイビッドからスマホにメッセージが届いた。
「金曜日の正午までにはサンティアゴに着くから、夜にみんなで会おう!」
まるで僕の心を読んだかのようなタイミングだ。さっきまでの孤独感がふっと消えていく。返事はもちろん決まっている。
「すごい! じゃあ金曜日にサンティアゴで!」
* * *
アルスアは大きな川や海に面しているわけでもないのに、2日前のポルトマリンと同じように、町全体が霧に霞んでいる。朝7時半。もうすでにたくさんの巡礼者が僕の前を歩いている。
林道を歩いていると、おでこにポツリと来たので「まじか!」と焦ったけれど、どうやら木の枝に溜まった水滴が落ちてきただけのようで、ホッと胸をなで下ろした。10時を過ぎると霧が次第に晴れ始め、水色の空が少しずつ顔を覗かせてきた。
今日もほとんど休憩を挟まずに歩いている。正午を回り、小さな町に着いたけれど、ここでも休む気にならず、そのまま歩き続けた。でも、ペースをほんの少し落とすことにした。
再び林道の巡礼路に入る。種類は分からないけれども、ジー、ジー、ジーと伸ばして鳴く鳥の鳴き声と、キュッキュッキュッと短く鳴く鳥の鳴き声が、周囲から聞こえてくる。それ以外には何の物音もしない。
人の気配がないことに気づき、何気なく周囲を見回してみた。驚いたことに、歩いているのは僕だけだった。サリア以来、こんなのは初めてだ。
小刻みにアップダウンを繰り返す。その登り坂の途中で少し気分が悪くなってきた。なんとなく腹痛も感じる。
毎日毎日30キロ近くも歩いていたら身体だっておかしくなりそうなものだけど、これまでの27日間、体調を崩したことは一度もない。もしかすると、実際には不調な時も、気が張っていて気づかなかっただけなのかもしれない。それが今は緩み始めているということか。
歩くスピードがどんどん落ちてきて、とうとうリュックを下ろして地面に座り込んだ。
空気が揺れるようなゴーっという大きな音に驚いて上空を見上げると、飛び去っていく飛行機の尾翼にポーランド航空のマークがはっきりと見えた。サンティアゴ空港が近いのだ。
機体はすぐに雲の中に消えてしまった。けれども、勢いよく飛び去る飛行機の姿を見たらなんだか元気が出てきた。お腹の調子が悪いという感覚も弱まった。よし、歩こう。ウルトレイヤ。今夜の宿まではあと3キロもない。
自転車の巡礼者たちが僕を追い抜いていった。別に珍しい光景ではない。
ふいに、彼らは2、3時間後にはサンティアゴに到着するという事実が頭に浮かんだ。なんだか、まるで実感がわかないけれど、彼らはその事実をしっかりと認識しながら自転車を漕いでいるんだろうか?
4歳の女の子をリヤカーに乗せたフランス人の巡礼一家を思い出した。あと2、3時間でサンティアゴに着くと分かった時にどんなことを考えていたのか、あの子のお父さんに尋ねてみたい。
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