ピレネー越え(5)
直射日光にさらされ続け、本気で辛くなってきた頃、前方に小さな集落が見えてきた。助かった。ようやく日陰で休めるし、冷たい飲み物も手に入るはずだ。
集落に入り、最初に目に入ったのは、道沿いに佇むレンガ造りの教会だった。サンティアゴ巡礼のシンボルである帆立貝が外壁に彫られている。扉を引いて中に入ると思いのほかたくさんの巡礼者が集まっていた。通路前の長椅子のひとつに腰を下ろし、しばらく目を閉じる。それから両手を組んで静かに祈った。
どうか無事にサンティアゴ巡礼を終えられますように。
そんな言葉がなんの衒いもなく、自然に口をついて出たことに自分でも驚いた。こういう時、宗教的な力の大きさをしみじみと感じる。もちろん、昨夜惨めな思いをしたせいもある。
入り口で1ユーロを寄付し、巡礼手帳にスタンプを押してもらった。イエスの使徒、聖アンデレの青いスタンプ。教会のスタンプはこれが初めてだ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着後、教会のスタンプがひとつもなくて巡礼達成証明の交付を断られたという話を何かで読んだことがある。この青いスタンプがあればひとまず安心だ。でも、教会でスタンプを押してもらうのは案外難しい。だって、そもそも教会が開いてないことの方が多いのだ。実際、曜日の問題なのか時間帯の問題なのか、いままでに通りがかった教会はどこも閉ざされていた。
集落を抜けてふたたび砂利道へ。ずっと先の方、山頂に風車が一列に並んでいる。丘陵の登り始めに見た時と比べても風車が近づいている気がしない。あれから1時間半は経っているはずなのに。
それでも坂道をさらに登り続けると、風車の姿もさすがに大きくなってきた。視覚だけじゃなく、風車が回るビュンビュンビュンという音まで間近に迫って来る。これらの風車がどれくらいの電力を生み出しているのは分からないけれど、迫力がある。山頂はいよいよ近い。
結局、予定よりもかなり早く、午後1時前には「許しの峠」に到着した。麓からはミニチュアのように小さく見えた風車なのに、ここまで来るとその巨大さを否応なしに実感する。ぶっとい支柱のはるか上で、3本の羽が轟音を響かせながらグルングルンと回っている。ドンキホーテがロシナンテにまたがって挑んだ風車がこの大きさだったら身体はバラバラになってしまったはずだ。
風車が絶え間なく回っているだけあって、山頂は風が強く、寒い。温度計が示す30度という数字が嘘のようだ。僕以外にもたくさんの巡礼者たちが山頂で休憩しているけれど、坂道の途中では大人気だった木陰には誰一人おらず、みんな陽の当たる場所を選んで座っている。
尾根沿いに並ぶ、馬やロバに乗った巡礼たちをかたどった銅板のモニュメントが定番の撮影スポットで、巡礼者たちがスマホで写真をパシャパシャ撮っている。僕も1枚だけカメラに収めた。
世界の主要都市までの距離と方角を示した標識が1本のポールからあちこちの方向へ突き出している。観光地でよく見かける代物だ。シドニーまで1万7千500キロ、ソウルまで9千700キロ、ニューヨークまで5千800キロ、ベルリンまで1600キロ。そして、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで550キロ。
ここからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの直線距離は550キロ。でも、実際に歩く距離はもっと長くてまだ700キロ以上の道のりが残っている。そこへたどり着くのはいったいいつになるんだろう。
でも、ひとまず今日のゴールはプエンテ・ラ・レイナ。距離はおよそ10キロ。しかもほとんどは下り坂だ。もちろん、注意深く歩く必要があるのは上り坂じゃなくて下り坂のほう。それでも、慎重に歩いてもペースは自然と速くなるから、さすがに4時間もかからないはず。午後5時には宿にチェックインできるだろう。
ペースを上げすぎず、慎重に。これだけは心掛けながら坂を下っていく。所どころ、急斜面を避けるために階段が作られている。この方が歩きやすいはずという親切心によるのだろうけど、実際に歩いてみるとこれが厄介なのだ。踏面が歩調と合わないせいで、坂道を歩いている時よりも膝にくる。思い出してみると、四国の遍路道にもこんな感じの歩きづらい階段があった。そのたびにヒイヒイ言いながら歩いたものだけど、カミーノの階段は欧米人仕様なのか、段差が高くていっそう歩きづらい。自分の足の短さが恨めしい。
下り坂にもすっかり慣れた頃に小さな村にたどり着いた。空腹感はないけれど喉はカラカラに渇いている。冷たい飲み物がほしい。そう思い、道沿いのバルで冷えたアクエリアスと炭酸水を頼んで立て続けにガブ飲みする。ああ、これぞ命の水なり。もちろん、給水所でペットボトルを満たすのも忘れずに。
この村でちょっと面白い物を発見した。腰の高さくらいの石壁の上にスニーカーがずらりと一列に並んでいる。そしてスニーカーの首元から花やサボテンが顔をのぞかせている。スニーカーの鉢植えなのだ。よく見ると、どのスニーカーも片足だけで、ペアが揃っていない。なかなか見事なリユースに感心した。
村を出発し、ふたたび歩き出す。巡礼路はもうほとんど平らな道に変わっている。道の片側に緑色の実がたわわに実った葡萄畑が広がっているけれど、この葡萄、食用なのかワイン用なのか、どれも固そうに見える。
この葡萄畑を過ぎると先方にゴール、プエンテ・ラ・レイナの町が見えてきた。その瞬間、思わず笑いがこみ上げてきた。本当に歩けたんだ! 自分でも信じられないくらいだけど、心の底から達成感が湧いてきた。この先の巡礼でどんなに辛いことがあっても、今日を思い出せばきっと乗り切れる。静かにそう確信した。
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