第7話 「繋がる点と点」

バスが揺れるたび、律の祖父の手帳が膝の上で微かに音を立てた。手帳に記された住所は、駅からもバスでしばらくの場所にある、古い団地の一角だった。律の心臓は、高鳴る鼓動を抑えきれないでいた。本当に、ここにあの人が住んでいるのだろうか? そして、祖父は一体、その人に何をしたのだろう?


梓は隣で、スマホの地図と手帳のメモを見比べながら、楽しそうに何かを呟いている。律の不安とは裏腹に、彼女の表情は希望に満ちていた。その前向きな姿に、律はいつも救われる。


バスを降り、二人は団地の中を歩いた。どれも同じような外観の建物が並び、どこか人の気配が薄い。律の祖父の記号が記された表札の家を見つけた時、律の心臓はさらに大きく跳ねた。梓がインターホンに手を伸ばす。律は思わずその手首を掴んでしまった。


「……あの、もし、何も知らなかったら」


律の声は震えていた。自分の過去の失敗、そして祖父の「秘密」。それらが明らかになることへの恐れが、彼を支配していた。


梓は律の手をそっと握り返した。


「大丈夫ですよ、律さん。きっと、おじい様が繋いでくれた縁です。怖がる必要なんて、ありません」


梓の温かい手が、律の不安を溶かすように、彼の心を落ち着かせた。律は深呼吸をし、小さく頷いた。梓はインターホンを鳴らした。


しばらくして、ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。ドアの隙間から顔を覗かせたのは、穏やかな目をした初老の女性だった。律が名乗ると、女性の目が驚きに見開かれた。


「藤堂……? もしかして、あの時計屋さんの?」


女性は、律の祖父のことを知っているようだった。律が頷くと、女性は静かにドアを開け、二人を家の中へ招き入れた。簡素だが、きれいに整頓されたリビングに通される。壁には、色褪せた家族写真が飾られていた。


女性は、律の祖父との出会いを語り始めた。


「主人がね、大切にしていた懐中時計があったんです。もう何十年も前の話だけど。それは、若い頃に私がプレゼントしたものでね。ある日、それが壊れてしまって……主人は、ひどく落ち込んでしまった」


女性の声は、遠い記憶を辿るように優しかった。


「そんな時、友人に教えてもらったのが、藤堂さんの時計屋さんだったんです。主人は、半信半疑で時計を持っていったわ。藤堂さんはね、何も言わず、ただ静かに時計を受け取ってくれたと聞きました」


律は、手帳に記された「失われた笑顔を取り戻した少年」というメモを思い出した。少年だった夫が、時計が直って笑顔になったのだろうか。


「数日後、時計が直って戻ってきたんです。主人は、直った時計を見た瞬間、本当に、少年みたいに目を輝かせてね。あの時計が直ってから、私たち夫婦の会話が増えて、忘れかけていた昔の思い出を語り合うようになったんです」


女性は、飾られた家族写真の一枚を指差した。そこに写っていたのは、若い頃の女性と、満面の笑みを浮かべた男性、そして小さな子供たちだった。


「あの時計は、壊れる前の時間を刻む道具じゃなかった。私たちが、もう一度、お互いを大切にすることに気づかせてくれたんです。藤堂さんは、ただ時計を直しただけじゃない。私たち夫婦の、止まっていた時間を、もう一度動かしてくれたのよ」


女性はそう言って、優しく微笑んだ。その言葉に、律の胸に熱いものが込み上げてきた。祖父は、本当に人々が抱える「止まった時間」を動かしていたのだ。


女性の話を聞きながら、梓は律の手帳を広げ、あるページを指差した。そこには、女性の夫の名前と、やはり「失われた笑顔を取り戻した少年」というメモが書かれていた。そして、その横には、律の祖父が記した、律自身の懐中時計に刻まれたのと同じ記号が添えられていた。


律は、自分の過去の失敗、壊してしまった時計、そしてその持ち主の絶望を思い出した。祖父は、そんな人々の「止まった時間」を、時計を通して動かしていたのだ。


「律さんのおじい様は、時計を通して、人の心と心を繋ぐことをされていたんですね」


梓の声が、律の耳に届いた。律は、何も言わず、ただ深く頷いた。祖父の残した手帳の点と点が、今、律の中で確かに繋がり始めた。そして、彼の心の奥底で、止まっていた何かが、ゆっくりと動き出そうとしているのを感じた。


続く

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