第6話 「道の途中、心の距離」
電車がガタンゴトンと規則正しい音を立てて走る。律は窓の外に広がる田んぼの風景を眺めていた。都会の喧騒を離れると、空気が澄んでいるように感じる。隣に座る梓は、手帳に何か書き込んだり、スマートフォンで地図を確認したりと、忙しそうにしている。その明るい横顔を見ていると、律の心にも、微かな光が差し込むような気がした。
「律さん、次で乗り換えですよ」
梓の声に、律は我に返った。慌てて降りる準備をすると、梓がくすりと笑った。
「意外と忘れっぽいんですね、律さん」
「……あまり、旅行慣れしていないので」
律は小さく呟いた。カフェを開いてから、これほど遠出することはなかった。むしろ、自分の世界に閉じこもるように、最低限の外出しかしてこなかったのだ。
乗り換えの駅は、想像以上に田舎で、ホームには数人の乗客しかいなかった。次の電車が来るまで、まだ少し時間がある。梓は、ベンチに腰掛けると、手帳を広げた。
「あの、律さん。この手帳の『忘れかけていた約束の時』って、どんな時計だったんでしょうね?」
梓は、手帳に記された短いメモを指差した。律は、その言葉を読み上げると、一瞬、遠い目をした。
「祖父は、古い懐中時計を直すことが多かった。きっと、誰かと交わした大切な約束が刻まれた時計だったのかもしれません」
律の言葉に、梓は深く頷いた。
「律さんのおじい様は、本当に素敵な方だったんですね。私のお父さんも、時計が好きで……」
梓の言葉が途切れた。律は、彼女が両親の離婚によって「止まった時間」を抱えていることを知っていた。梓の表情が、ふっと翳る。律は、なんて声をかけていいか分からず、ただ黙って梓を見つめた。
「すみません、変な話をしてしまいました」
梓は、無理に明るい声を出した。その笑顔が、律の胸を締め付けた。
「……梓さんの、お父様も、時計が好きだったんですね」
律は、ゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。梓は、律が自分の話に耳を傾けてくれたことに驚いたように、律を見た。
「ええ。子供の頃、よく一緒に、古い時計屋さんを覗きに行きました。あの頃は、家族みんなで、よく笑っていたんです」
梓の声は、微かに震えていた。律は、自分の過去の「失敗」と、目の前の梓の「止まった時間」が、不思議と重なり合うように感じた。
「私も……大切な時計を、壊してしまったことがあります。もう、二度と直せないかもしれない、大切な時計を」
律は、これまで誰にも語ることのなかった過去を、梓に打ち明けた。梓は、律の言葉に息を呑んだ。律の表情には、深い後悔と、自責の念が滲んでいた。
「だから、時計師の道を諦めたんです。壊してしまったのは、ただの機械じゃない。持ち主にとっての、かけがえのない『時間』だった」
律の声は、絞り出すようだった。梓は、黙って律の話を聞いていた。そして、ゆっくりと律の手に触れた。律は、梓の指先の温かさに、ハッと顔を上げた。
「……律さん」
梓の瞳は、律の目を見据えていた。そこに同情はなく、ただ、深い理解と、温かい励ましが宿っていた。
「きっと、大丈夫です。律さんは、今、おじい様の手帳を辿って、前に進もうとしている。それだけでも、すごいことですよ。止まってしまった時間を、もう一度動かそうとしているんです」
梓の声は、力強く、律の心にじんわりと染み渡った。律の目に、薄い膜が張った。梓の言葉が、彼の心を覆っていた厚い氷を、少しずつ溶かしていくのを感じた。
律は、ゆっくりと、自分のポケットから祖父の懐中時計を取り出した。止まったままの針。しかし、梓の言葉を聞いた今、その時計が、これまでとは違う輝きを放っているように見えた。
「きっと、おじい様も、律さんがこうして前に進もうとしていることを、喜んでいるはずです」
梓はそう言って、優しく微笑んだ。律は、祖父の懐中時計をそっと握りしめた。旅はまだ途中だ。しかし、この旅が、律自身の「止まった時間」を、確実に動かし始めていることを、彼は感じていた。そして、その隣には、いつも梓という光が寄り添っていた。
続く
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