第3話 「祖父の手帳」
「時の止まり木」の朝は、いつも律が淹れるコーヒーの香りで始まる。律は、カウンターの奥から祖父の懐中時計をそっと取り出した。昨日の梓との会話、そして清水さんの話が、彼の心に波紋を広げていた。止まった針。しかし、確かに一瞬だけ動いたような気がしたのだ。律は、時計を掌に乗せ、じっと見つめた。
その時、律の視線が、時計の裏蓋に刻まれた、これまで気づかなかった微細な文字に留まった。それは、祖父のイニシャルと、小さな日付、そして、律には見覚えのない記号だった。律は、祖父の遺品を整理した際に、古い木箱の底で見つけた一冊の手帳を思い出した。埃をかぶったその手帳には、祖父の几帳面な筆跡で、様々な時計の修理記録が記されていたはずだ。
律は、店の奥にある小さな書斎へ向かった。埃を払って書棚から手帳を取り出すと、パラパラとページをめくる。祖父の筆跡は、律が幼い頃に見たそれと全く同じだった。修理日、依頼主の名前、そして、時計の種類。しかし、その隣には、彼には理解できない奇妙な記号や、短いメモが添えられているページがいくつもあった。
「……これだ」
律は、懐中時計の裏蓋に刻まれた記号と同じものを見つけた。その記号の隣には、依頼主の名前と、短い言葉が添えられていた。
「『止まった時間が、動き出す』……?」
律は、その言葉を声に出して読み上げた。祖父は、本当に時計を通して、人々の「止まった時間」を動かしていたのだろうか?律の心に、これまで感じたことのない、微かな期待と、そして戸惑いが生まれた。
その日の午後、梓がカフェにやってきた。律は、手帳のページを開いたまま、カウンターに座る梓の前に置いた。
「これ……祖父の手帳です」
梓は驚いたように手帳を手に取った。丁寧に綴られた祖父の筆跡と、奇妙な記号に興味津々だ。
「これ、もしかして、おじい様が修理した時計の記録ですか?」
「ええ。ですが、この記号や、添えられた言葉の意味が……」
律は、自分が発見した記号と、その隣に書かれた「止まった時間が、動き出す」という言葉を指し示した。梓は、その言葉を読み上げると、ハッと息を呑んだ。
「これって……清水さんの話と繋がりますね!おじい様、本当に時計を通して、人々の心を動かしていたのかもしれません」
梓の瞳が輝いた。律の心にも、熱いものがこみ上げてくる。
「この手帳に書かれている人たちを、調べてみませんか?もしかしたら、祖父の秘密が分かるかもしれません」
梓の提案に、律は一瞬ためらった。これまで、自分の「失敗」から目を背け、祖父の時計師としての過去にも深く触れようとしなかった。しかし、梓のまっすぐな瞳と、手帳に秘められた謎が、律の心を揺さぶった。
「……はい」
律は、ゆっくりと頷いた。その返事に、梓は満面の笑みを浮かべた。
「よし!じゃあ、まずはこの一番古い記録から調べてみましょう!この住所、まだあるかな?」
梓は手帳の最初のページを指差した。そこには、律の住むこの街から少し離れた場所の住所が記されていた。律は、止まったままだった祖父の懐中時計をそっと握りしめた。祖父の残した手帳が、律自身の「止まった時間」を動かす、最初の一歩になるかもしれない。そして、梓との出会いが、その背中をそっと押していることを、律は感じていた。
(続く)
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