第2話 「祖父の秘密」

「時の止まり木」の扉が、カラン、と軽やかな音を立てた。梓がいつものように顔を出すと、律は既にカウンターの向こうで、彼女のためにマグカップを用意していた。


「おはようございます、律さん。今日もいい香りですね」


梓が席に着くと、律は無言で、しかし淀みない動作でコーヒーを淹れ始めた。湯がコーヒー粉に染み渡り、ふわりと甘い香りが店内に広がる。


「あの、律さん」


律がカップを差し出すと、梓は躊躇いがちに切り出した。


「壁の時計、昨日、一瞬だけ針が動いた気がしたんです。気のせいでしょうか?」


律の手が、ぴたりと止まった。彼は梓の顔をじっと見つめる。その瞳の奥に、わずかな動揺がよぎったのを梓は見逃さなかった。


「……気のせい、でしょう」


律はそう答えたが、その声にはいつもの平坦さとは違う、微かな揺らぎがあった。梓はコーヒーを一口飲み、視線を壁の時計に戻した。


「でも、なんだか不思議な感じがして。律さんのおじい様が使っていたんですよね?」


「ええ」


律は短く答えた。梓はさらに言葉を続けた。


「律さんのおじい様も、時計職人だったんですよね?もしかして、この時計には何か特別な秘密があるとか……?」


律は、ゆっくりと顔を上げた。梓の探るような視線に、彼は少しだけ口を開いた。


「祖父は……変わった時計師でした」


「変わった?」


梓は身を乗り出した。律はカウンターの布巾を丁寧にたたみながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「壊れた時計を直すだけじゃない。持ち主の……その時計に込められた『時間』を、大切にしていたようです」


「『時間』……ですか?」


梓は首を傾げた。律は、壁の時計に目を向けた。


「祖父はよく言っていました。『時計は、ただ時間を刻む道具じゃない。持ち主の人生の、大切な瞬間を記憶しているんだ』と」


律の言葉は、まるで遠い記憶を辿るようだった。梓は、律の祖父がただの時計職人ではなかったことを直感した。


「じゃあ、この止まった時計にも、律さんのおじい様の、大切な『時間』が込められているんですね?」


梓の問いに、律は答えなかった。ただ、その表情は、いつになく複雑なものだった。梓は、律の心に触れるような気がして、それ以上は踏み込まなかった。


その時、扉が再び開いた。入ってきたのは、杖をついた老婦人、清水さんだ。彼女は律の祖父とも親交が深かった。


「あら、梓ちゃん。今日も律くんの美味しいコーヒーを飲みに来たのね」


清水さんはにこやかに梓に話しかけ、いつもの席に座った。律は清水さんのために、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。


「清水さん、律さんのおじい様のこと、何かご存知ですか?この時計のこととか……」


梓が尋ねると、清水さんは目を細めて壁の時計を見上げた。


「ああ、あの時計ね。懐かしいわねぇ。律くんのおじいさんはね、本当に不思議な人だったのよ。壊れた時計を持っていくとね、ただ直すだけじゃなくて、持ち主の心まで軽くしてくれるような、そんな人だった」


清水さんの言葉に、律の表情が僅かに強張った。梓は、清水さんの話に引き込まれるように耳を傾けた。


「昔ね、私の夫が大切にしていた懐中時計が壊れてしまってね。それは、夫が私にプロポーズした時に贈ってくれたものだったの。もう二度と動かないかと思ったんだけど、律くんのおじいさんがね、それを直してくれたのよ」


清水さんは遠い目をした。


「直してもらった時計を受け取った時、夫がね、まるで時が巻き戻ったみたいに、あのプロポーズの時の顔に戻ったのよ。本当に不思議な話だけど、あの時計が動いたことで、私たち夫婦の絆が、また深まった気がしたわ」


清水さんの話を聞きながら、律はカップを握りしめていた。梓は、律の祖父が単なる時計職人ではなかったという言葉の意味を、少しずつ理解し始めていた。


「律さんのおじい様は、時計を通して、人々の『止まった時間』を動かしていたのかもしれませんね」


梓の言葉に、律は顔を上げた。彼の瞳の奥に、何か強い光が宿ったように見えた。それは、祖父の遺した手帳に記された、不思議な記録と重なるような気がした。律は、これまで触れることのなかった祖父の「秘密」に、少しずつ近づいていることを感じていた。


そして、梓もまた、律の祖父の物語に触れる中で、自身の「止まった時間」に向き合うための、小さな勇気を得ていた。


(続く)








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