第14話 お風呂のあれ
東京の片隅、築50年の木造アパート。
家賃は安いが、狭くて暗い部屋に加え、壁は薄いし窓も小さい。
唯一マシなのが、なんとかリフォーム済みの風呂場だけだった。
航平にとっては、夜な夜なそこで湯に浸かるのがささやかな贅沢。
「ふぅ……今日も疲れた……」
仕事帰りにコンビニで買った缶ビールを風呂場に持ち込み、湯船に肩まで沈む。
ぼんやりと天井を見上げながら、ぬるめのお湯に体を預ける瞬間が最高だった。
……のはずだった。
「……お湯、あったかいねぇ♡」
「ぶほっ!? おいおい今誰だよ!?」
思わず口に含んだビールを吹き出した。
慌ててあたりを見渡すが、当然風呂場には誰もいない。
ただ、聞こえたのは確かだ。はっきりと耳元で。
「今日も一緒に入ろうねぇ……♡」
「おい排水口!! 風呂の入り方間違ってんぞ!!」
排水口はゴポゴポと泡を立てるだけ。
でも、その泡が小さく笑ってるように見えるのがまた腹立たしい。
「……いや、気のせいだ。俺は疲れてるんだ。疲れてるだけ……」
その日は早々に体を拭き、ビール片手に布団へ潜り込んだ。
だが次の日も――
「今日のパンツ、シマシマだったねぇ♡」
「うるせぇ!! なんで知ってんだよ!!」
「だって排水管は全部繋がってるんだもん♡ キッチンもトイレも……洗面所も……」
「いやどこ経由して来てんだよ!! てか家中覗くな!!」
「だって、航平くんの全部……見てたいから♡」
「やめろ! その言い方、やけに可愛くてイラッとするんだよ!!」
その声は時々、息を漏らすようにくすぐったく囁く。
声色だけならちょっと可愛いのが逆にムカつく。
(……ていうか何? 俺、排水口に口説かれてんのか?)
気づけば湯船で突っ込みを入れるのが日課になっていた。
そしてある夜。
「航平くん、今日疲れてるでしょ? 代わりに背中流してあげたいなぁ……♡」
「いや、お前に任せたら排水溝の穴っていう穴から謎のぬるぬる出てきそうだからやめろ!!」
「ひどいなぁ。じゃあ……洗ってあげよっか? その、あそこ♡」
「お前排水口のくせにセクハラやめろ!!」
「だってお風呂ってそういうところでしょ?」
「そ、そうだけど……!! 変な理屈つけんな!!」
なぜか頬が熱くなる自分が悔しい。
「……ねぇ航平くん、昨日のお湯……おいしかった♡」
「飲んだのかよ!? 排水口ってそういう存在だっけ!? てか、それ俺の垢とか……」
「だからいいんじゃない♡ 航平くん成分いっぱいで……♡」
「言うな! 成分とか言うな!!」
湯船の中で思わず膝を抱えて丸くなる。
でも、ある晩。
「なぁ、お前……いつまでそこにいるつもりだよ?」
湯に浸かりながら、つい弱気な声を漏らす。
排水口はしばらくゴボゴボと泡を吐いた後、
少し照れるように、くすぐったそうに。
「ずーっとだよ♡ 航平くんがお風呂に入る限り、ずっと一緒……♡」
「……なんだそれ、ちょっと嬉しいじゃねぇか……」
そう言った瞬間、排水口からぽこぽこと泡が上がり、
それが小さなハート型に弾けた。
「……いや見えちゃダメだろそれ!!」
でも思わず笑ってしまう。
なんだかんだで毎晩こうして話せる相手がいるのは、悪くない。
(……これが、俺の風呂ライフか。いや、バカだな俺)
その夜も狭い浴槽で、排水口とくだらない話を交わしながら、
航平は不思議にあったかい気持ちで、目を閉じたのだった。
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