特別編『響の記憶、もう一つの音色』
『盲目のピアニスト』こと水瀬 響は、幼い頃から音の世界に生きてきた。先天性の視覚障害を持つ彼にとって、外界は常に音と感触、そして人々の声で形作られていた。しかし、彼の記憶の中に、鮮やかな『色』を持つ唯一の音があった。それは、彼が6歳の頃に亡くなった、母が弾くピアノの音色だった。
響の母もまた、ピアニストだった。彼女はプロの道には進まず、小さな教会のオルガン奏者をしながら、響にピアノを教えていた。母の弾くピアノは、教会のステンドグラスを透過する光のように、温かく、そして多様な色彩を帯びていた。響は、母の奏でる音一つ一つに、色と形を感じ取ることができた。あの頃の彼にとって、世界は母のピアノの音色そのものだった。
ある日、母が練習中に言った。「響、この音はね、海の青色よ。そしてこれは、太陽の金色。」
響は幼いながらも、その言葉を理解できた。彼の心の中には、母の音によって描かれた、鮮やかな海の風景が広がった。
しかし、その『色彩』は、母の死と共に失われた。母が亡くなってから、響はピアノを弾くことができなくなった。鍵盤に触れても、そこからは単なる音しか聞こえず、かつて感じられた色彩も、温かさも、何もかもが消え去ってしまったように思えた。彼の世界は、突然、モノクロームになってしまったのだ。
そんな響を、父は心配しながらも見守っていた。父は漁師で、音楽とは無縁の人間だったが、響が唯一心を許せる存在だった。父は無理にピアノを弾かせようとはせず、ただ静かに響のそばにいてくれた。
数年後、響が暮らす小さな町に、ある老人が引っ越してきた。その老人こそ、後に響が『音の自由』を教わることになる、盲目の漁師だった。彼は、嵐で漁に出られない日々に、暇つぶしにとピアノを弾き始めた。彼の弾くピアノは、楽譜通りではない、荒削りだが力強い、まるで海そのものの音だった。
初めてその音を耳にした時、響は衝撃を受けた。それは、母のピアノとは全く異なる種類の音だったが、なぜか彼の心を強く揺さぶった。その音には、完璧な技巧はなかったが、老人の人生、荒々しい海との闘い、そしてそこにある生命が凝縮されているように感じられた。
響は、老人のピアノを聴くたびに、少しずつ彼の内側に眠っていた『音の感覚』が呼び覚まされていくのを感じた。老人は言った。「音はな、心で感じて、身体で表現するもんじゃ。あんたの心の中にも、あんただけの音があるはずじゃ。」
老人の言葉と、彼が奏でる自由な音に触れるうち、響は再びピアノに向かう勇気を得た。そして、鍵盤に指を置いた時、彼は驚いた。かつて母の音から感じられたような『色彩』は戻ってこなかったが、代わりに、彼自身の感情が音となり、身体全体から溢れ出すような感覚がそこにあった。彼の指から紡ぎ出される音は、完璧ではなかったが、彼自身の内側にある『何か』を表現していた。
それは、母の温かい色彩とは違う、もっと力強く、時に不協和音を奏でながらも、深く心を揺さぶる音だった。響は、この時、失われたものを取り戻すのではなく、新たな『音の景色』を見つける喜びを知ったのだ。
そして、その新たな『音の景色』は、後に莉子との出会いによって、さらに広がりを見せていくことになる。響は、莉子の中に、かつての自分と同じように、音の中に『色』を見つけようとする情熱を感じた。そして、彼女が自分自身の音を見つけていく過程で、響自身もまた、これまで見えなかった自身の音楽の可能性、そして、人生の新たな『色』を見つけ出していったのだ。
響にとって、音は単なる振動ではなかった。それは、記憶であり、感情であり、そして何よりも、彼自身の人生を彩る、唯一無二の『光』なのだ。
盲目のピアニスト 乱世の異端児 @itanji3150
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