鉄の彼方

Richard

黄昏と黎明

ザンナは石を受け取った。ヒンヤリと冷たく、重かった。


「ホウ、この銀色の石は何だね」


見るとそれは、日光をキラキラと反射して煌めいている。

すると職人がニヤニヤしながら言う。


「はい、それは新しい素材で御座います。冷めている時には青銅よりも硬く丈夫なのです。にも拘らず、熱すると水のように柔らかくなって、どんな形にでも加工できる代物に御座います。差し当たり、鉄、とでも呼びましょうか」


ザンナはそれを聴いた瞬間、寒気と共に振蕩した。

この手元で輝く石が一気にズッシリと重くなったように感じる。

然し同時に、新たな素材へと心躍らせていた。


「これで、バビロンも滅ぼせるか」

「容易いでしょう」


戦士は、自分の口角が上がるのを抑えられなかった。鼻に血の臭いが広がる。

ザンナは戦いに関しては恐ろしく執着が強かった。

既にザンナの頭では、鉄の武器という新要素、及びその装備をした部隊の陣形など、あらゆる事に瞬時に考えを巡らせていた。


「ところでこの、鉄、とやらの製造現場は」

「ご覧になりますか?」

「当然だ」


戦士は職人に連れられ、神殿の外に在る、煙の立ち上る泥の建物へと向かっていった。

ヒッタイトの位置する地は海に囲まれているものの、とても使えたものではない。アムル人が持つバビロニアの二つの巨大な水流が、ヒッタイトにとっては堪らなく恨めしかった。


——俺たちが川を手に入れるんだ。


バビロンはハンムラビが死んで、もう腐り切っている。

今、あの国は脂肪の塊である。かつての盤石な骨組みや内臓はボロボロに衰弱している。


――そこに鉄のご登場とは、天命が来たな。



製鉄所に近づく度に、何かを打ち付け合うような甲高い音が大きくなっている。


「これは何の音だね」

「これは熱した鉄を叩いて、形を整えている音で御座います」

「...冷めれば、青銅よりも硬くなるのか」

然様さようで」


鉄を叩く音が聞こえる度に、戦士の気分も高揚していく。一体鉄の実力はどんなものか。

遂に無数の職人の群れが見えた。職人は絶え間なく鉄を打っている。更に奥には、最近建設した泥の竃から、真っ赤な液体を取り出している職人の姿も在った。

ザンナはその光景に呆気にとられ、声を震わせた。


「...あれが、あれも鉄か」

「はい、熱すると真っ赤になって柔らかくなります」


そして眼を移すと、其処には大王ムルシリの姿も在った。

ザンナは思わず駆け寄って声をかけた。即位したばかりとはとても思わせない様な威厳である。常人とはかけ離れて恵まれた体躯が一層、この大王の得も言えぬ覇気を引き立てる。


「大王様...!?ドウして大王様がわざわざこんな所に...?」

好戦的でギロリと開かれた眼がこちらを向いた。

「おう、ザンナ。馬鹿言え、これでバビロンを殲滅できるというのに、出向かない手はないだろう」


戦士の胸の鼓動が、一層高く跳ねた。


――これからとんでもないことが起こるぞ。


一人の職人が、銀色に伸びる剣を持ってムルシリに献上した。

「大王様、こちら先程打って、更に研ぎ終えた鉄剣で御座います」

「フム」


大王はぶっきらぼうに鉄塊を受け取ると、職人の話はそっちのけで剣に見惚れていた。まだ若く荒々しい大王の筋肉を、残忍な血漿が脈々と流れていた。

すると大王は不意に顔を上げて大喝した。


「おい、適当な奴隷を一つ持ってこい」


近くの兵士が「御意」と呟くと、何処かへ行ってしまった。

かと思うと、叫び声と共に帰還してきた。


「嫌だ!嫌だ!なんでもするから、どうかそれだけは!頼む、許してくれ!!」


縄で繋がれた奴隷は、不幸にもこれから自分に降りかかる悲劇を察知し、泣き叫んでいた。

だが誰も聴いてすらいない。

ムルシリは自分の腰の青銅剣をスラリと抜くと、いきなり奴隷を斬りつけた。

肉が潰れる鈍い音と共に、断末魔と血柱があがった。

青銅は奴隷を右から斜めに切り裂き、重傷を負わせた。

大王は顔色一つ変えずに、今度は先刻受け取った鉄剣を構え、左から斜めに振り下ろした。

ドカッという音と共に奴隷の腹が割れ、臓物が飛び出た。

鉄剣は明らかに鋭かったのだ。

周りからオオッとどよめきが起こる。


「よし、竃を増設して鉄の生産を加速させろ。職人も増やせ」


大王の言葉に、ザンナは少し引っかかった。


「...大王様...鉄の生産は余り表向きにしない方が良いのでは...仮にこの技術がアムルやミタンニに盗まれてしまったら、些か問題で御座いましょう...」


ムルシリはギロリとザンナを顧みて睨んだ。

その瞬間、戦士は慄然とした。


――この男、野望を燃やしている。

この者は只の王ではない。メソポタミアを覆い尽くす程巨大な野望を焦がす王だと、戦士は確信した。


「奴らが盗む前に殲滅してしまえば良かろうが」

ザンナはニヤリと笑った。

「...はい、仰る通りで御座います」


ムルシリは大音声で叫んだ。

「馬と戦車を二千、小兵を一万用意しろ」

その言葉に皆が顔を上げた。


――大戦だ。



ザンナは夕暮れ、ある作業場に辿り着いていた。そこには上流貴族の姿も在り、中でもムルシリの義兄弟のハンティリが際立つ。

作業場では今、戦車に取り付ける車輪を作成していた。

戦士はハンティリに頭を下げて、ハンティリの持っている設計図板を覗き込んだ。

ヒッタイトの車輪は、シュメールの技術をそのまま盗んだものだった。ザンナの知っている車輪も、木製の円板に軸を挿したものである。

然し、その粘土板に描かれた車輪は、これまでに見た事も、思い浮かべた事もない構造をしていた。一目見て、車輪だと判らない程だった。

ハンティリは義兄に似た、性悪な微笑を浮かべて言う。


「わかりますかい?」

「...まったく解りません」


見慣れた円形の板は無く、外側にのみ円形の輪があり、その輪と中央に通る軸とを、何本もの棒が放射線状に伸びていた。それに、戦車に付いた車輪は二つしかない。

ザンナは怪訝そうに首をかしげた。


「えっと...何と言うか、何とも貧弱そうな車輪ですな...」


するとハンティリは笑みを更に狡猾にし、自慢する様に説明を始めた。


「はーん、貧弱そうに見えますかい?実は、この車輪の方が頑丈なんで御座います」

「はっ?」


この貧弱な車輪の方が優れるなどと信じる事は、この戦士には到底不可能だった。


「だって、ザンナ殿がいつも乗っておられる戦車なんてどうです。二度に一ペンは板が裂けて壊れるでしょ」

「確かに...」

「それは重い二枚の板だからいけないんです。この車輪は、軸から外輪に伸びる棒の集まりが、常に地面に垂直になるようになってるじゃないですか。だから裂ける事も無ければ、重さで潰れる事も無いんですよ」

「ハァ...然しそんなに上手くいくものですかね。俺にはそれが、従来よりも丈夫だとはとても信じられない」

「まあ楽しみにしててくださいな」

ハンティリは終始ニヤついていた。

「それにほら、ご覧くださいよ。あの鉄の戦車たち。義兄上あにうえ様がこの度の戦は大変だからって、大量の鉄を提供くださったんです」


ザンナは顔を上げると、言葉を失ってしまった。

大量の、野蛮に煌めく未完の戦車が横たわっていた。

この時代の戦車とは、馬が引く車を示す。当時、戦争に戦車を使う事は常識であり。国力の指標ともなり得るものだった。

厳重に封鎖された屋内なのにも拘らず、反射光が眩しい。圧巻の光景だった。然し、戦士の頭にフト疑問が浮かんだ。


「何故屋内で作業するんです?外ならもっと広くてスペースも使える」


すると、ハンティリの表情が狡猾を極めて豹変し、急に声を潜めた。


「わからないか!この製鉄の技術や車輪の技術は、未だ一切他の国に知れ渡っていないんだぞ。こんな前代未聞の技術が敵に知れたらえらい事になる」

「...然し、製鉄は外で行っていますが」

「あれは義兄上の独断だろう!俺は反対したんだ」


ザンナこそ最初は反対だったため、ハンティリの怒りは致し方なく思えた。

戦士は「承知」と言い捨て、日没のヒッタイトの街中に飛び出た。


    ◇


エンリルはバビロニアの地を踏みしめていた。

神殿の中でいつものように祈禱をしつつも、今日は考え事にふけっていた。黄金の彫像を見上げる。


――神よ、こんな私をお許しください。


この腐り切った国には心底ウンザリしていた。だが、エンリルの中に流れるアムルの血と、神への信仰心が、その魂を繋ぎ止めていた。

先日、ヒッタイトがここバビロンへの襲撃を計画しているとの噂が入った。それに、途轍もない新兵器を発明したらしい。

民衆は慌てる事もなく、怒る事もなく、ただ溜息を吐くだけだった。

王宮に音をあげる程締め上げられた結果、何にも関心をなくしてしまったのだ。

エンリルは、それが一番危険な状態だと知っていた。

滅びゆく者の必要条件である。

そして、胆力に満ち溢れた数人の人間はそれに対して反発し、声を荒げた。

だが既に手遅れだった。

勿論、エンリルもその一人である。

神官という立場を活かして王の一族へ対応を仰いだが、全く手応えが無かった。王宮は無様な権力争いと醜い欲望に満ち溢れ、それどころではなかったのだ。


「これまでこの国は長い歴史を生きてきたんだから、今回も何とかなる」

「あんなちっぽけな新興国に何ができる」


どれだけ言っても、二言目には必ずこう言われ、会話ごと突っ撥ねられるのだった。エンリルには、その自信がどこから湧いてくるのか不思議でならなかった。

確かにヒッタイトはバビロンよりも小規模だ。

然しうなぎ上りに発展している国と、すっかり勢いを無くした老いぼれの国では、どちらが力があるかは一目瞭然だろう。何を根拠に大丈夫だと言っているのだ。


――例えデマだとしても、このままだと滅びる日は遠くないと解らんのか。


エンリルは祈りを止め、ふと背筋をヒョイと伸ばした。急に武士部隊を視察しようと思い立ったのだ。

神殿を出て、無数に下へ続く階段を降りていく。

実のところ、エンリルは神に祈るのが好きではない。神は居ると信じるが、依存するのを嫌った。事あるごとに神の名を口にする他の神官たちが気に入らなかった。少しは自分たちの力でナントカしたらどうかね、と思うのだ。

エンリルが就任したばかりの頃は、ここに居ても十分に部隊の声が聞こえてきたものだった。訓練演習の何と勇ましく頼もしい掛け声だっただろうか。

だが今は何も聞こえない。

街を歩いていても尽く悪い雰囲気を感じる。

民には昔のような活気は失せて、搾り取られたかの様に瘦せ細っていた。

エンリルの様に、好待遇の下過ごしている神官とは全く比べ物にならない。そして、先程から自分を呪う様に降りかかってくる視線をひしひしと感じていた。

神官は心底腹が立った。

何故自分のように、真面目に国を変えようと思っている者にばかり大衆の怒りの矛先が向くのだ?寄生虫の如く本当に民草を貪り蝕む者は、絶対に表に出て来ないのだ。それが口惜くやしくて堪らなかったのである。

やがて訓練場に着いた。エンリルは、親しい武士の頭領を探し当て、話しかけた。


「...兵たちはどうだい」

「...士気が恐ろしく低いです。十分な食料も提供されなければ、必要な備品すら揃っていない。それに...例の噂の所為でみんな浮足立っております」

「無理はない...君は本当によく頑張ってる」

「なに、これが仕事です。エンリル様だって、神官の中でこの国に一番身を投じられているのは重々承知していますよ」


献身的な神官は俯いた。


「身を投じても、結局何も返ってこないんだよ。私の能力不足だ」


すると武士は語調を強めた。


「エンリル様、いいですか。それは貴方に責任があるのではありません。その貴方の努力を、王宮の猿どもがき止めているだけなのです」


神官はギョッとした。


「ばかっ、誰かに聞かれたら...!」


頭領は俯き、再び訓練の指導に移っていった。

相も変わらず活力のない兵士の声がする。威勢の欠片もない。神官は大きく息をいた。

すると、一人の兵士がモノスゴイ剣幕で訓練場に入ってきた。


「報告!あっ、エンリル様、丁度良い所に、ええと、ヒッタイトの軍が我々の第一防衛線を突破して第二防衛線へと猛進しています!」


空気が急に重く、冷たくなった。

エンリルは驚かなかった。だが、確実に焦っていた。あの噂が本当だろうと判っていながらも、内心では噓であってほしいと逃避を続けていたため、それを眼の前にいき

なり突き付けられた様な気がしてしまったのだ。


「...俺たちは町の防御を固めるしかない...」


頭領が兵士たちに向けて言った。

バビロンの防衛線は三つある。二つは郊外に同心円状にある。そして最後の一つは、都の城壁と堀だ。しかも第二防衛線はユーフラテス川にある。バビロンはユーフラテス川とチグリス川を占領しているが、この二つの全てを以て国を回している。どちらかが陥落したら、バビロンは崩壊するのだ。詰まる所、第二防衛線を突破された時点で実質上の敗北は決定している。しかもヒッタイトの軍備なら、此処に来るまで然程かからないだろう。どの兵を取って見ても、諦めの色がはっきりと見えた。


「じゃあ、エンリル様は王宮に報告されますか?」


頭領が神官に向き直って言った。

然しその心算つもりはエンリルの頭には無かった。

もう一つ、エンリルには検証しなければならない事があった。


「...いや、馬と護衛兵を出してくれ」


頭領は不審に思いながらも了承した。


「第二防衛線に向かうんですか?」

「違う。第一防衛線だ」


    ◆


ヒッタイトは気が浮いていた。

大衆も当然、眼前にある無数の鉄戦車と鉄剣を見ながら勝利を確信していた。この街には今、敗北の文字は無かった。

既に部隊は整い、いつでも出陣可能だ。

ザンナも鉄剣を携え、愛馬に跨っていた。

後方では、ムルシリが家族に別れの挨拶を告げている。丁度、ハンティリと言葉を交わしているところだ。ハンティリとムルシリの間に一人の人物がいた。名をハラプシリという。それはムルシリの実の妹であり、ハンティリの妻であった。

ハラプシリは兄に似ず、とても穏やかで聡明な顔をしていた。性格も非常に玲瓏で、皆から慕われる様な存在である。

実にあの二人は、あの女に因って繋がっているのだ。ハラプシリは両の大漢にキスをしてから、二人を引き離した。

それが出発の合図となった。

ムルシリ大王一行は、二つの獅子像の横を、大歓声に包まれて通り過ぎた。

ザンナも門をくぐり、祖国を旅立った。


    ◆


「かかれや」

第一防衛線の戦いは、大王の大音声に因り火蓋を切った。

戦士がずっと懸念していた戦車の車輪も、想像以上に良く働いた。

鉄製の戦車は相手の装甲を大きく凌駕していた上に、ハンティリの設計した車輪は速度も出やすく、壊れにくく、更には小回りも効くという、全く申し分ない性能を見せたのだ。

この戦車に、バビロンの旧式の戦車は全く成す術もなく沈んでいく。

鉄の鏃、鉄の兜、鉄の剣...

軍備も何もかも、ヒッタイトが卓越していた。

大王軍は、数と経験、そして青銅を手に持ったバビロンの軍勢を軽々と突破し、勢いの儘に行軍していった。



その大勢の足音が消え去った後、荒れ果てた戦場に姿を現した男が一人。

エンリルだった。

神官の両脇には護衛が二人。

「こんな所で何をしようってんです」

エンリルは冷たい風が吹く夜闇の中、只管ひたすら地面を睨む。ありがたい事に今日は月が出ていた。然し三日月だから視界は然程良くない。だがその分、神官の姿もよく隠れた。

「もうヒッタイトなら第二防衛線に到達していてもおかしくないですよ」

見つかるのはバビロンの兵士の死体と、馬や戦車のみ。神官は苛立ちを募らせていた。


――こんなにも完膚無きままに打ちのめされたか。


すると、遠くにキラリと光るものが見えた。

神官は惹き寄せられる様にその光に近づいていった。

其処にはヒッタイトの戦車があった。しめたと思いつつ戦車を見遣るが、一瞬にして神官の表情は曇った。


――なんだ、これは。


先刻見つけた時に光っていると思ったのは、月光を反射していたからである。だがここまで美麗に輝く青銅を、エンリルは見た事が無かった。神官が困惑しながら馬を降りると、護衛も手綱を引いた。


「...これ、ヒッタイトの戦車ですか」


エンリル無言で頷いた。ヒッタイトの装備は見れば判る。戦車の傍で息絶えている兵士を見れば、上から下まで、バビロンのものとは異なるのだ。そして神官は、またもや不可思議な物質を兵士の手に確認した。

剣のようなもの。だがこれも青銅とは異なり、見事なツヤを放っていた。


――戦車と同じ素材だ。


エンリルは吸い込まれる様に、月光を反射して煌めく剣を手にした。剣に付いた血が、地面に滴る。

それはズッシリと重かった。まるで月を持っているような、そんな感覚だった。


「これは何だ...?西で有名な金か?」

「...金なら、もっと色味が絢爛な筈です」


沈黙が続いた。

神官はその間に、戦車の車輪の規格が変わった事、そしてこの銀色に輝く物質が新兵器を構成しているであろう事を目ざとく推察した。

エンリルは頭が切れる分、繊細であった。神官の頭はどうしようもなくグルグルと動乱していた。

神官の服の中を汗が滴る。

次の瞬間、神官は銀色の剣を手に馬に跨った。護衛も慌てて手綱を持ちかえる。

暗闇の中、三人の男は全霊を籠めて馬を駆った。


その頃ヒッタイトが既に第二防衛線を突破し、ユーフラテスを制圧した事も知らずに。


バビロン。深夜、明かりがついているのは神殿だけ。

神への供物の煙だけが、空へゆらゆらと立ち上る。

三つの影は街に吸い込まれていった。

護衛を兵舎に送り返すと頭領に雷を落とされていたので、親切な神官は「なら私を叱り給え」と言って頭領を黙らせた。

神官は馬を降り、駆け足で神殿に向かった。

銀に光る剣は、通りすがる者の眼を惹きつけた。まるで剣自体が光を放っている様な存在感だった。

神殿に着くなり、エンリルは叫んだ。


「城の防御はどうなっている!」


エンリルは街に入る時に止められなかったどころか、一人足りとも城壁に兵を見なかった事に、腹の底から苛立っていた。

すると神官が一人、また一人と、酒に酔った様な顔をして顔を出してきた。

この時点でエンリルはバビロンの滅亡を悟った。最早先刻までの怒りは呆れに変わり、却って気分が落ち着いてゆくのを感じた。


「現在の城壁の警戒はどのようになっていますか?」


沈黙。その光景はまるで、一対多の講義だった。

すると暫くしてから誰かが、

「多分いつもと同じだと思う」

とほざいた。

教師の顔に影が差したと思うと、教鞭を振るう代わりに、鉄剣を振るった。ビュッと空を斬る音がした。

ざわめきが起こる。


「エンリル!神殿内で剣を抜くとどうなるかわかっているだろうな!」

「解っているに決まってるでしょう。そもそも、近い内にバビロンは滅ぶんです」

「なんだと?...何を根拠に!」

「根拠?ならこの状況で、滅ばない根拠はあるんですか?...こちらの根拠は、これです」


エンリルは剣を指さした。


「奴らの新兵器です。これがどれほどの脅威かお解りですか?他にもこの素材の装甲の戦車だってありますし、車輪だって改良されています」

「お、お前、何故そんな事を知っている!さては裏切りか!」


エンリルは呆れ果てた。心の底から呆れた。大きく溜息をく。


「だったら、今更弾劾したところで何の得がありますか」

「...その銀色の石はなんだ」


エンリルはニコッとした。


「これはヒッタイトが発明した新素材でしょう。私が見たところ、青銅よりもずっと硬いですよ」

「...ヒッタイトは攻めてきているのか」


エンリルは驚きと呆れで口をあんぐりと開けた。


「...えっ?昼頃第一防衛線を突破されたと伝令が入りましたよね?」

「でもまだ第一防衛線だろう。ユーフラテスは獲られていない」


遂にエンリルの怒りが沸点に達した。


「軍勢はもう第一防衛線には居ないッ!我々は壊滅だ!あそこには我が国の残骸しか見当たらなかったんだぞ!そんならトックに第二防衛線も突破しているだろうが!」


遂に神官たちは顔色を変え始めた。それは果たして祖国への危機感なのか、エンリルの剣幕に気圧されたのかは定かではない。


「見ろッ!」


エンリルは叫ぶと、近くの青銅器を、手元の銀に輝く剣で叩き潰した。


「これがヒッタイトだ!」


エンリルは息を整える。


「わかったら早く防御態勢を取れ!城壁を固めろと伝えるんだ!」


眼前の神官たちはまだ動かない。


「今 直 ぐ に ! !」


神官はゴミの様に散っていった。


「みんな敵襲に備えろー!敵は銀の石を持っている!」 

「銀の石だ!」

「城壁を固めろ!」


エンリルはひとりその場にへたり込み、再び大きく息を吐いた。

すると、奥から人が歩いてくる。王だ。

王サムスは、何が起こっているのか解らないといった顔をしている。


「...この騒ぎはなんだ!?」


疲れ果てた神官は、チッと舌打ちをした。


「サムス王、あなたが女性と戯れるのに勤しんでいる間に、ヒッタイトが攻めてきましたよ」

「...なんだ、ヒッタイトか」

「もう、直ぐそこですよ」

「なにっ!?」


サムス王は漸く慌て始めた。


――憐れな王だ。


すると、サムスはブツブツと獨り言を呟き始めた。

「...じゃあ、あの側室は持って行くとして代々の財宝も――」


エンリルはあらゆる憎悪を込めてサムスを睨んだ。


「...わかった」


遂に王は観念して、城壁に向かって行った。

その後、エンリルは鉄剣を片手にフラフラと、祈禱所へ足を運んだ。


「...神よ」



焼けるような風が、神殿の高台を撫でていた。夜闇の中、遠く西方より砂塵が上がる。

だがそれは風ではない。兵の大軍だ。ヒッタイトの銀色の兵だ。

エンリルは祈りを止め、神殿の外に目を向けた。バビロンの空は黒く染まっている。だがその下の大地は、既に赤く染まり始めている。

「本当に来た...」

足元で震える神官の声が聞こえた。


「神は我らを試していらっしゃるのだ。試練を越えた者だけに未来が約束されている」


    ◇


籠城戦は長きにわたって続いた。

バビロンは、双方の予想を遥かに超える粘り強さを秘めていたのだ。

どちらの陣営にも疫病が蔓延し、日に日に兵士の精力は削り取られていった。これもひとえに、戦争の不潔さが引き起こすものに他ならない。

競り合いはいつしか、ヒッタイト軍の兵糧が尽きるのが先か、バビロンの城門が砕けるのが先かというせめぎ合いになっていた。


そして今日、遂にバビロンが限界を迎えた。歴戦の大国は意地を見せたが、やはり鉄という未知の力を操る新興には敵わなかった。

銀の石を打ち当てる様な音が、城門から響く。

歓声ではない。断末魔の叫びでもない。唯、不気味な死の調べが押し寄せて来る。

かつて大河を制し、大衆を抱えたこの国は、栄華の極みを成した。

だが今、銀色の刃はその文明を易々と断ち切る。

エンリルは、神殿の回廊を浮浪した。

祭壇には、まだ昨日捧げた黄金の彫像が置かれている。だがそれを見上げるエンリルの眼は虚ろだった。


「...バビロンの栄華は終わる」


気づくと、エンリルの後ろに武士の頭領が立って居た。

賢い神官は敢えて「持ち場に就かなくていいのか」とは訊かなかった。


「ヒッタイトの銀の石は、俺たちを斬り裂くでしょう。でも、忘れないでください。炎に埋もれた種は、いつかまた芽吹きます。あなたの努力も決して無駄になる事はない」


その言葉を最後に、頭領は剣を抜き、神殿の外へと消えていった。エンリルは引き止めなかった。ただ、静かに目を閉じて呟いた。


「そうだといいな」


――西門、陥落。

鐘の音が一度だけ鳴り響く。誰もその意味を取り違えなかった。

民が逃げ惑い、兵が倒れ、神殿が揺れる。

エンリルは神像を背に、神殿の書庫から何枚もの粘土板を取り出す。

祖国が焼け落ちる前に、この文明の記憶だけでも。

自分の脳に焼き刻んでおきたかったのだ。

炎が迫る。ヒッタイトの軍勢が神殿を登ってくる音がする。

神官はそれを聞きながら、口元に静かな笑みを浮かべた。

静かに膝を折り、祭壇に額をつけた。


「偉大なる神よ。この文明の魂を、どうか刻み給え」


その祈りの声が、最後の鐘の音と共に空へ溶けていった。



バビロン南門、鉄軍本陣。

長い戦闘の末、やっと今夜決着をつけに行く。

ザンナは曇り無く輝く鉄兜を被り、ゆっくりと右手の篭手こてを締めた。息を短く吐き、剣を拾い上げる。

鉄で造られたそれは重く、青銅では到底受け止めきれない剛力を秘める。だが鉄が全身にのしかかる重さが唯、肩に食い込むように痛かった。


「ザンナ様、間もなくバビロン本陣への突入を開始致します」


部下の報告に、戦士は頷いた。

彼の背後には数千の鉄兵、ヒッタイトの精鋭が整列している。今日、疲弊し切った兵士を並べるのにも一苦労だった。そして、その一人ひとりの顔は、最早ザンナには見えていなかった。


「俺たちは勝った。勝つのだ...そうだろう?」


自分に言い聴かせるように戦士は呟く。

ムルシリ大王がこの戦を宣言し、青銅の国を鉄の力で打ち砕くという構想を立てた。それを聞いたザンナは喜びと高揚の余り、それに乗った。

今も、大王の野太い声が誇らしげに響く。

だがバビロンは、ただの都市ではなかった。

奴らにとっての神が住み着く領域であり、古来からの祈りが積み重なった場所であ

る。今、自分たちはそれを地に沈めようとしている。


「この手で神を斬っている気がする」


誰に向けたでもない独白だった。

それを聴きつけた近くの兵士は、言葉を選びながら答えた。


「神は...勝者に宿ると申します。今宵より、バビロニアの神は、ヒッタイトのものとなりましょう」


ザンナは小さく笑った。だがその笑みには、まるで魂が無かった。


「...行くぞ」


鉄の兵が神殿階段を登って往く。火の手が上がり、民衆の叫びが遠くに聞こえる。

ザンナも剣を鞘から抜き、深紅に染まったその刃をじっと見つめた。

ザンナは、大王から神殿を攻めよと命を受けていた。

無論、ムルシリの事だ。指示は、皆殺しだ。

然し戦士の心には何か引っかかって仕方がない。


――本当にいいのか。


もうユーフラテスは抑えた。都に関しても、制圧したと言って良い状況だろう。

然しやらなかったら、自分の地位は無い。敵の希望の象徴が残る事になる。

神殿の扉が開かれた。白衣の神官たちが無抵抗の儘、こちらを睨んで佇んでいる。

神官たちは最早剣に抗おうともしない。神が救ってくれる事を信じているのだろうか。

ザンナはゆっくりと歩を進めて行く。戦いが終わるまで少しでも時間を稼げるよう、なるべく遅く進むように努めた。内心は早く撤退の鐘が鳴るのを待っていた。

然しそのザンナの願いも虚しく、遂に最奥の祭壇にまで到達してしまった。ザンナは巨体を気遣う様に、慎重に祭壇を歩いて行く。

すると祭壇の奥で祈禱をしている若い神官とばったり遭い、眼が合ってしまった。

無言だった。唯、互いにこの瞬間の意味を知るのみだった。


「こんな時まで...愛国心が強いんだな」

「はは、愛国心だなんて、私にはそんなもの在りませんよ」

「...お前は逃げなかったのか」

「あなたも、進むしかなかったのでしょう」


一瞬の短い言葉の交差だった。だが、この神官の言葉にザンナがたじろぐには充分の時間だった。


――この若者、俺の心を見抜いている。


それに、あの神官の手に握られているもの、あれは俺たちのもの――彼奴きゃつは一体、何者だ?

ザンナは剣を下ろし、神官を見据えた。


「...名は」

「エンリルと申します」

「...憶えておくよ」


眼前の貧弱で小柄な若造に、戦士はスッカリ凄んでしまった。

遂にザンナはエンリルの視線に負け、横にある黄金の彫像を見上げた。


「俺は君を殺さなければならん」


眼の前の若造は、儚い笑みを浮かべ、頷いた。

それがこの上なくザンナの心を抉り返したのだった。

後ろから味方の足音が聞こえてくる。

ここで唯の神官と永遠に対峙しているのが発覚したらと考えるが、ザンナの腕は言う事を聴かなかった。

然しザンナも遂に意を決し、鉄剣の柄を握り締めた。

「デエヤアアッ」

この戦士は生まれて初めて、声を出しながら人を斬った。

そうでもしないと、心の迷いが邪魔をしてくる気がした。

神官の傷は、肩からザックリと深く刻まれた。直ぐに血が噴き出し、臓物が噴き出した。

だが、戦士は恐れおののく余り、口の中の水分が全て蒸発した。


――何故...立っている。


神官は、斬られる前のように、ただ笑みを湛えながら立っていた。

端から見ても力量の差はあきらかなのにも拘らず、戦士はワナワナと震えていた。

その時だった。

王宮の方角から「バビロン国王サムス、ヒッタイトが大王ムルシリが討ち取った」という鬨の聲が空に響いた。

同時に、撤退の鐘が鳴った。

それを聴いた眼の前の神官の顔から一気に生気が抜けた。と思うと、そのままどっと倒れ伏した。


その夜、都バビロンは燃えた。

然しザンナの軍は神殿を破壊しなかった。いや、できなかった。

神殿には今、味方の兵士が我先にと乗り込み、黄金の彫刻や財宝を担いで出て来る。ザンナには、あの若者の視線が忘れられなかった。あの最期の儚い笑顔が脳裏にこびりついて離れない。思い返す度に息苦しくなるようだった。


――ああ、あと一瞬でも早く撤退の鐘が鳴っていたら!!


そんな事を考えて止まないのである。

戦士は焼け落ちる都市を見下ろしながら、獨り馬上にいた。

勝者として、祖国へ凱旋する筈の男は、沈黙のまま西の地平を見つめていた。

それが鉄の戦士が最初に覚えた、“敗北”だった。

見ると、神殿だけ燃えていない。一見、全くきずが無いように思えた。それはザンナが任務を遂行しなかったという明確な証拠だった。


――俺はどう罰せられるのだろう。


神殿についての憂慮が去ると、今度はその事で頭が一杯になった。

戦士がボウッと考えていると、後ろから獰猛な気配がした。この人物に関しては、気配で何となく察しが付くようになっていた。

自分の処分には、既に覚悟を決めていた。


「大王様...こんな所まで来られてどうされたんです」


戦士は振り返らずに言った。


「ザンナ、お前神殿に放火しなかったのか」

「ええ」

「...素晴らしいじゃないか」

「...はっ?」


戦士は肩透かしを喰らった。


「お前が火を付けていたら、こんな素早く財宝を運び出せなかったぞ。それに奴らの書物はあろうことか、神殿に積まれていただろ。多分貴重なものばっかりだ」


ザンナは素直に喜んでいいのか判らなかったが、嬉しいのには変わりなかった。色々な感情が混ざった微妙な顔で、「ありがたきお言葉」と言うので精一杯だった。


「ホラ、今日は大宴会だぞ」


そう言うと大王は忙しなく降りて行こうとする。


「えっ...ここでやるんで?」


ムルシリはキョトンとした。


「当ったり前だろ。奪い取った地で祝盃を揚げるのが通例だろうが」

「然し大王様、唯でさえこの地は長期戦で疲弊しています。ここは一度、適当に兵を置いてヒッタイトへ戻った方が宜しいのではないでしょうか」

「ノリの悪い奴やなあ。ちっとは肩の力抜け」


ムルシリはそう言い残すと、軍に合流して行ってしまった。

ザンナの心に迷いが生じてしまった。

新しく手に入れた地だから不安で仕方ないのだが、確かに俺は少し気を張っているのかも知れない。


その夜、ヒッタイトの兵たちは羽目を外して宴会を楽しんだ。

だが事実、兵の大半が故郷の事を憂いていた。


――そして、悲劇は始まった。


宴席の只中だった。

数人の伝令兵が城門を通って駆け込んで来た。顔を見る限り、ヒッタイトに残った兵たちだ。伝令は真っ直ぐに大王の元へ向かって行く。

やがて大王に一礼すると、何かを耳打ちした。一瞬、ムルシリの眼が曇った。だが直ぐに輝きを取り戻し、


「ハッハッハ、いくら嬉しいからって冗談はよせ」


と哄笑した。

このムルシリの反応は、唯でさえ焦燥で苛立つザンナを不安にさせるには充分だった。

その後、慌てて再び大王に耳打ちし、懐から粘土板を取り出して献上した。

大王は、蒼くなった。


「...本当か」


宴席の騒ぎは、いつの間にか止んでいた。皆が大柄の王を不安げに見ている。


――遂にやられたか。


ザンナは震えた。恐れていた事が現実のものとなった。既に戦士の頭では、侵攻を行った国について推論を巡らせていた。

ミタンニの遊牧民どもか、はたまた南のエジプトか...いや、エーゲ海のミケーネか、傭兵軍団のカッシートの可能性も捨て切れん...

ムルシリが唇を震わせながら、真実を発表した。


「...ハンティリが、クーデターを起こした」


不測の事態だった。

大王は慌ただしく席を立った。


「...俺の妹が人質に取られた」


これには将兵もザワついた。

――ハラプシリ様が...

――俺たちはどうなるんだ。

――俺の母ちゃん大丈夫かな...

――民衆はどうなっている。

ザンナはまたしても肩透かしを喰らったのだ。


――敵は内部に在り、か...


大王は顔を蒼くした儘、無言で馬を出した。そのまま一心不乱に城門の外に消えて行ってしまった。

暫く、指導者を無くした軍勢はムルシリの姿を眼で追っていた。

ザンナがハッとして急いで声を上げた。


「全軍、大王様に続けっ」


鉄の将兵はどっと駆け出した。宴会場も全て放って、狂った様に出発の支度を始めた。

ザンナも馬を出すや否や、城門を潜った。

「あっ」

そしてこの戦士は今になって気づいたのである。

――しまった。兵を残しておくのを忘れた!


「全軍止まれっ」


ザンナが慌てて叫ぶ。将兵はあからさまに苛立ちを見せながら止まった。だが、戦士はまた失態を犯した事に気づいた。

見ると走る兵はバラバラだ。全く兵の統率が取れていない。

剛の将が何とした事だろうか。先の事に眼が行く余り、今の事に集中できていなかった。こんな失態は在ってならない。戦士は焦った。大いに焦った。


「...ええと、ヒッタイトで城壁の守備に着いていた者は手を挙げろ」


その場に居た二割程の兵士の手が挙がった。


「よし、お前たちはバビロンの警備に着け。取り敢えず都の城壁だけで構わん。...俺たちが戻ってくるまで、耐えてくれ」


こうして、大王の護衛兵とバビロンの防衛兵は、緊迫感を以て別れを告げた。そしてザンナは残った者に向けて叫んだ。


「お前たち、隊列はどうした。警戒隊列を組め」


ザンナは部隊の先頭に立ち、馬の腹を思い切り蹴り上げた。

疲弊と焦燥の余り、戦士は自分がバビロンに残るという選択肢すら忘れていた。


    ◆


やがて将兵は大王の後ろにピタリとくっつき、ヒッタイトの都ハットゥシャへと猛進していた。

将兵たちは何日も不眠不休で、無我夢中で走った。それはムルシリやザンナが指示した訳ではない。皆の故郷に対する執着が極限に達していたためである。

馬がバタバタと倒れ始めてからやっと、将兵たちは始めてその事実に気づいたのである。

それでも尚最低限の休養しか取らず、屈強な男たちは勢いを緩める事なく突進したのである。

当然、途中で限界を迎える者は少なくなかった。だが残りの兵糧と時間が許さない。その者らはただ、メソポタミアの土に倒れ伏すしかなかった。

そして城壁が遠くに見えた時、兵士たちは更に奮い立ち、襲歩した。

どんよりと暗く曇った空の下、見ると城門はきっちりと閉められ、二つの大きな獅子像が城門の前に立ちはだかっていた。

一見何の変哲もない、懐かしい故郷だった。

然し異様な空気が漂っていた。城砦には誰も居ない。門番すらも。まるで防御を放棄されたかのようだ。

バビロンを殲滅した鉄の兵士たちも、この状況の前ではただ怯える事しかできない。そもそも疲弊で、それどころではないようだ。

兵士にとっては王宮の事は二の次である。自分の妻子や、休息と食糧が何よりも気がかりなのだ。早く故郷で落ち着いて、妻子とともに家でくつろぐ事を只管ひたすら翹望ぎょうぼうしていた。

もうこの時点では、バビロンを墜としたという喜びや興奮はすっかり冷め切っていた。

そして、これは大王のすぐ後ろを行く戦士も同じである。

実のところ、ザンナは大王に対して沸々と恨みを募らせていた。自分の妹のためだけに大軍を振り回し続けるムルシリ、平気で神殿への攻撃を指示したムルシリの、全てに苛立っていた。これは蓄積し続けた疲労特有の所業とも言えよう。だが間違いなく、戦士は大王との間に憎悪の壁を築いていた。

やがて一行は城門を潜り、街に入っていった。すると、精兵たちは余計に混乱した。民衆の一人も居ない。建物は出発前のそのままで、然しながら全く閑としており、一層不気味だった。


ムルシリがまた、一人先を行く。


だが、戦士も誰も、追う者はなかった。

遂に街の最奥部まで人影は見当たらなかった。然しその先の神殿に、謀叛者は居た。

ハンティリは両脇に多数の神官や護衛兵を引き連れて、こちらを見下していた。

戦士は、横で怒りに震えている大王を冷ややかに見遣り視認する。


「ハンティリ!!どういう心算つもりだ!」

すると謀反者は鼻でわらってあしらった。

「こういう心算ですよ」

ムルシリはまさしく、怒り心頭と言った顔をしている。


「俺の妹は、無事なんだろうな?」


また、ハンティリが大王を冷徹に見下す。


「ああ、私の妻の事ですか?元気ですよ。ほら、あの人がお呼びだよ」


すると、兵士たちの間を縫って、ハラプシリが顔を覗かせた。表情は、暗い。まるで生気が宿っていない。


「ハラプシリ!」

「...ごめんなさい、もう、あなたのことをお兄様って呼べないの」


ムルシリはあんぐりと口を開けた。


「...おれの妹に、何をした」


謀反のリーダーは冷たい笑みを浮かべるだけだった。

ハンティリは傍の部下に眼で指図すると、大きい粘土板を受け取った。そして大音声

で朗読を始めた。


「一、謀反者ムルシリは、当初予定していた兵糧の十倍も要求し、民を混乱させた!」

「!!...嘘つけ!そんなに要求はしていな――」

「一、謀反者ムルシリは町の精強な兵士たちを尽く連れていき、国を危険に曝した!」

「いや、それは――」

「一、謀反者ムルシリは道中の数々の神殿を破壊して進軍を敢行した!」

「...」

「一、謀反者ムルシリは製鉄という全くの新技術を表に出し、他国に因る技術の盗用を許した!」


ハンティリは得意気になって、一息ついてニヤリとした。


「お前の犯した罪はあと十は優に超える。聴くか?」

「...いや、やめてくれ」


見ると、完全にムルシリは孤立していた。

ハンティリたち反乱軍の見下す先に、ザンナたち精兵が遠巻きになって眺める先に居た。それも挙って綺麗な円となって、彼の大王を拒んでいた様に見えた。

それを察知したのか、ムルシリはこちらを振り返った。

そこに怒りはもうなかった。絶望と孤独とが、いつも強靭に見えた筈の眼の奥に宿っていた。

さて、疲弊し切ったザンナは、同情よりも呆れが勝っていた。同時に、バビロン遠征を企てたムルシリを恨んでいた。

一見するとムルシリの悲嘆に応えるかの如く、戦士は一騎で歩み寄って行った。

充分に近づいた時、ムルシリはもう戦士を見ていなかった。

代わりに、平静の変わらぬ力強さで言った。


「なあ、俺は何処で間違えたんだろう」


その言葉がはっきりと戦士の脳内に反芻した時には、既にザンナは鉄剣を振り下ろしていた。

斬撃はムルシリの右肩から背中にかけて深く傷を残し、鮮血が噴き出す。

振蕩しながら振り返ったムルシリの眼は、ギラリと輝いていた。口も、笑っていた。


「...られるなよ」


最後の斬撃は、その鍛え上げられた筋肉を左肩からザックリと裂いた。

大王は、音を立てて地面に伏した。


「謀反者ムルシリ、ザンナが討ち取った」


衝撃が走っていた。

後ろで鉄を抱えていた精兵も、ハラプシリも、神殿に隠れて様子を見ていた民衆たちも、一人を除いて騒然としていた。


――ハンティリを除いて。


曇天の下、ザンナは新しい君主にひざまずいた。


    ◆


間髪入れずに、バビロンに増援も派遣された。やっとの思いで奪取したエデンの地である。防衛を強化しなければならない。

ハンティリが大王になり、ヒッタイトは大きく変わるだろう。製鉄所は全て地下に収容され、勤務する者も厳選され、秘密は完全に守られる筈だ。

事実、この後四世紀近くもの間、ヒッタイトの製鉄技術はどの国にも洩れる事は無かった。

然し、この事件の後、王宮の覇権争いが絶えなかったのも事実である。

救援軍の総指揮はザンナだった。

あの事変の後、ハンティリの信用を大いに勝って、身分も上がる予定である。その内心の浮かれに任せて、総指揮は自身の疲労からくる力の低下に気づいていなかった。

やがてザンナ率いるヒッタイト軍は、バビロンの第一防衛線に差し掛かろうとしていた。

然し、様子がおかしい。

前を征く兵士たちが戻って来る。

総指揮が何事かと叫ぶ。


「伝令!先鋒部隊が、防衛拠点から攻撃を受けています!!」


最初、自分の聞き間違いだと思った。

然し何度聞き返しても、同じ答えしか返ってこない。


「本当で御座います。私どもも何がどうなってるんだかサッパリで...」

――どういうことだ?俺は確かに残留兵を配置してから帰路に着いた筈だ...それとも、また内乱か?今度はこちらで?いや、何故だ。反乱を引き起こす要素は無い筈だ...

総指揮はスッカリ混乱してしまい、結局軍全体がパニックに陥る事になった。

人は、上に立つ者を見る。

そして、その見たままを手本として模倣する癖がある。だから指導者の優劣に依って組織の優劣も変化していくものだ。

「ええい、落ち着け、落ち着け!俺が先頭に立って進んで行こう。様子を確認する」

兵士たちは漸く少し落ち着きを取り戻し、進軍を開始した。だが、まだ全員の気持ちが浮ついていた。


「ヒッタイトの援軍だ。城門を開けろ」

総指揮が最前で叫んだ。

然しそれに対する応答は開門ではなく、怒号だった。

「フン、漸くお出ましになったか!」

そう聞こえたかと思うと、矢の雨が軍に降り注いだ。

ヒッタイトの精鋭は混乱を極めようとしていた。

総指揮は事の重大さに漸く気づき始め、できるだけ冷静に努めようとした。

矢の雨を鉄の刃で弾きながら、首を捻らせて上を見上げた。次の瞬間、ザンナの眼は大きく見開かれた。


――ヒッタイトの兵士ではない。


まさかだった。まさかここまで早く、他勢力が進出してくるなどと言う事は想定していなかった。


「全軍、怯むな!あれは俺たちとは全く違う余所者だ!我らの力を見せつけてやれ、手加減は要らん!」


戦とは、不思議なものである。ひょんなことで大きく流れが変わる。この場合は総指揮の功績だが、この一言で軍の雰囲気が一変した。

一般的に攻城戦とは、攻撃側は防衛側の兵力の三倍は所持しておくべきだと言われている。だが、この時の互いの戦力は、実のところ互角であった。

だが、圧倒的に卓越した装備と士気が、ヒッタイトの総兵力を底上げした。


――やっと手に入れた新天地だ。簡単に逃すわけにはいかない。


総指揮は、神速の矢の如く城壁の一点を攻め立てる作戦に出た。

登って行く兵士たちが上から墜とされて絶命すると、その屍の上を新たに兵士が登って行った。

その兵士たちを城壁から狙おうとするならば、地上から弓兵が尽くを射止めた。

そして城門が開かれて痺れを切らしたように敵の戦車部隊や騎馬隊が出てくると、ヒッタイトの鉄軍団は、待っていましたと言わんばかりに、敵軍を散々に潰し回った。

斯くして、ヒッタイトの精兵はなんと半日で第一防衛線を突破し、敵の総司令を捕虜に生け捕った。


「お前たちは何者だ」

「...ミタンニだ」

「......俺たちが制圧して離れたところを乗っ取ったのか」


捕虜は、黙った。


「首都はどうなっている。お前たちの支配下か」

「...首都は知らん。でも、どうせ直ぐに我々の増援が来て奪い返すだろうよ」

「そうか。斬れ」


傍の兵士が剣を構えた。


「ああ、お前たちのその装備、凄かったな。特にその銀の石。それが無けりゃ、圧勝だったのにな」


捕虜は、そう言い残して絶命した。

倒れ伏す捕虜の姿が、若い神官と重なった。あの男を思い出すと、ザンナは気が狂いそうになる。

――エンリル。

あの時、撤退の鐘がもっと早く鳴っていたら。俺が奥まで進まなかったら。


「大丈夫だ。俺たちが第二防衛線に着いたら休息だ。仲間が待っているぞ」


総指揮はそうやって軍を鼓舞しつつも、内心では焦燥と不安に駆られていた。


――バビロンの首都はどうなっている。そもそも第二防衛線はどうなっている。あそこに残した軍は無事だろうか。


若しも無事じゃなかったら、俺のクビはどうなる。


    ◆


精兵は、一日も経たない内に第二防衛線に到着した。

此処を越えればユーフラテスに拠点を置ける。その希望だけが、今の鉄の軍団を突き動かしていた。

いつの間にか、兵士は最初の何割か程になっていた。

そして、想定はしていたものの、やはり現実となって見せつけられると精神を削ってくるものだ。

防壁には、まるでヒッタイトのものとは言えないような兜や鎧がずらりと並んでおり、上から鉄兵たちに弓を引いていた。


――しかも、ミタンニの奴らとも違う。


ヒッタイトの兵たちは坂の下から、戦々恐々として見上げていた。

総指揮が大音声を上げる。


「何者だ!」

「お前こそ名乗れ!」

「ヒッタイトだ」

「...フッ、そうか、元居た奴らの増援だったか!我らはカッシートだ!既に首都も、チグリスも我らの手中だぞ」


これには、その場に居た全員が衝撃を受けた。


――チグリスも、ユーフラテスも獲られた。


絶望の淵を覗いている気持ちだっただろう。

ヒッタイトの鉄兵軍団に、重い沈黙が訪れた。


「...総指揮、作戦は」

「......前回と同じ、一点突破でいく。城壁の右側を攻めるぞ」


総指揮の頭には、今になって若い神官の姿が亡霊になって漂っていた。何故か、奴が離れない。その所為でボウっとしている。


――俺は、やはり神を斬ったのか。これはその報いか。


いや、違う。

そう信じたかった。

神を斬って、大王を斬ってまで手に入れたこの地位だ。そう考えると自分には充分すぎるだろう。


「かかれ」


数多の戦車、歩兵が突っ込んで行く。防壁に突撃しては砕け、先の戦の様に死屍累々と言った状況になった。

やがて、兵士の一人が城壁を登り詰めた。


――よしっ。


だが、奴は斬られた。


――いや、次の兵が来る。


そう思ったのも束の間、どんどん続勢は押し返されていく。

すかさず総指揮が城壁付近に目を遣ると、そこに数多居た筈の兵士は殆どなくなっていた。

大体が血を流して地に伏していた。


――不味い。負ける。


総指揮は、今になって初めて己の考えのなさを恥じた。限りない羞恥心がザンナの胸を支配した。何故もっと多くの兵力を、帰還の際に残せなかったのだろうか。何故この数の軍団で、突撃を命じたのだろうか。自分でも疑問に思い、慚愧心と自責が横溢した。

その時、城門が開いた。

戦車や騎馬隊が流水の様に出てくる。


「集まれっ」


こうも散り散りになっては混乱を避けられない、と考えたのだ。

精兵は迅速に集まった。内に背を向けて、相手を眼で捉えたまま、さっと中央に集まる。

総指揮は感動した。

自国の男たちがここまでの精強な兵に育ったとは。

だが同時に、この大半を自分の命に因って殺すのだと考えると、気分が悪くなった。

ザンナは自分でも気づかない内に、声を上げて人を斬っていた。

幾つも幾つも首を飛ばしても、敵は襲いかかってくるばかり。


「全軍、撤退」


遂に総指揮は叫んだ。

ヒッタイトの鉄兵は列を乱して撤退して行く。

行動の自由は在った。追撃は受けるものの、大難なく戦線離脱する事ができたのだ。

一目散に、祖国に向けて馬を駆った。


――大敗だ。


総指揮は顔面を引き攣らせた。

すると突然、前方から砂煙が舞った。


「総指揮!!前方から、新たに軍が向かってきます...!」


待ち伏せにしては余りにも露呈的だ、カッシートの軍勢ではないだろう。

総指揮は、混沌に揉まれる中で、やっとの思いで目を凝らした。

そして、遂にザンナは絶望した。


――ミタンニだ。


唐突に、捕虜の言葉が甦ってきた。


――いつか我々の増援が来て奪い返すだろうよ。


あの言葉を、唯の負け惜しみだとして受け取った自分を心底恨んだ。

また道を引き返すわけにもいくまい。

もう、奴らはどちらも直ぐ傍まで来ている。正面衝突は免れられないだろう。

カッシート軍もこれ見よがしに追撃を強めている。

後衛があれよあれよという間に倒され、ジワジワと総指揮に向かって迫ってくる。

奴らは外来勢力だからここまでに強力なのか。

個々の兵の力は半端ではない。俺たちの鉄装備に全く引けを取らないではないか。

事実、カッシート王朝はその強大な武勇を以て、バビロニア史上最も長く続く運命にあった。


遂に、正面衝突が起こった。

勢いの余り、辺りに衝撃波が走った様だった。

自軍の精兵が、絶望に満ちた顔で総指揮に目配せをする。

これにはザンナもどう返してよいのか、全く見当がつかなかった。今更何か命令を出そうにも、もう確実に手遅れである事は容易に見て取れた。


「全軍突っ込めっ、突破するんだ」


歓声と悲鳴の中、ザンナは既に、生き延びる術ではなく、死に様を考えていた。

最後に戦士として、戦場を駆け回って死ぬか。

否、それすらも、自らの罪と恥を挽回するには不十分だった。

ああだこうだと迷っている内に、遂にザンナの身体は、背後から青銅のやりに依って貫かれた。

ザンナの全身が重くなる。

周りから聞こえる、罵声と悲鳴。

暗くなった瞼の裏に最期に映ったのは、自らが殺した大王ムルシリの顔だった。


――なあ、俺は何処で間違えたんだろう。

――殺られるなよ。


我々は鉄を得た。だが、魂を失ったのかも知れない。


    ◇


その頃、唯一つ焼け残ったバビロンの神殿で、静寂と共に一つの人影が起き上がった。

若く、貧弱にも見えるその神官の顔には、測り知れぬ無限の執念が籠もっていた。

若者は血の滲む肩を押さえながらゆっくりと、一歩、また一歩と、前へ踏み込んで行った。

強大な復讐心と信仰心とが、この神官を突き動かしていた。

焼けつく日差しの下、エンリルは獨り、廃墟を後にした。

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鉄の彼方 Richard @Richard_Windermere

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