第9話 世界は絶えず動いているというのに

 枠しかない椅子に腰掛けていたので、お尻がその枠のなかに落ちたのだ。

 痛さ、苦しさの上に、恥ずかしさというのがどっと押し寄せてきた。

 「あわわわわわっ!」

と声が出そうになる。とっさに、足を踏ん張る。

 足は地面に着いた。ということは、これまで足は浮いていたのだ。

 でも、腰の後ろの、お尻の窮屈きゅうくつなのは直らない。むしろけだるい重みがその体の後ろのほうにかかっている。

 大きい円と、小さい円で、美聖のお尻はそれほど大きくなかったのだ。それは喜ぶべきことだ。喜ぶべきことだけど。

 いま、美聖みさとは、足で立ち、お尻を突き出し、そしてそのお尻には椅子の骨組みがくっついたままになっているらしい。

 「あ……」

 悲鳴を立てそうになって、止める。

 セーラー服の少女が、こんなみっともない姿でいるところなんて、世間様にさらすことはできない。

 この暑い天気で、だれも外に出ていないような暑い天気でよかった。

 でも、この前の道は、幹線道路とはいえないけれど、車がときどき通る。

 この先にはりんどうさんの登山道がある。ロープウェイの駅もある。山の手前や向こうの温泉に行く人もいる。早朝登山から下りてきた人もそろそろ来る時間だろうし、農作業をする農家の車だって通るだろう。

 さっさと、なんとかしなければ。

 そういうだれかが車を停めて助けてくれたりしたら、末代までの恥だ。

 いや。末代というのはずっと後の世代のことで、ということは美聖が子どもを産まなければ後の世代にはならないわけで、いまはその自分が子どもを産むということすら想像もできない。つまり、これは、その想像もできない時間が瞬間に凝縮したような濃度の濃い恥ということだ。

 ……よけいなことは考えず、なんとかしなくては。

 ふと、いま小屋の中で寝ている女の子のことを思い出す。

 あれを起こして、助けてもらうというのはどうだろう?

 女の子どうしだし……。

 だが、やめよう。

 弱みを握られる。

 いまは、詰めて座れば四人座れるような場所で一人で寝ているのを見ているこっちが優位だが、この姿を見られたらその関係が逆転する。

 それもどうでもよく、もし相手が自分より歳上だったら?

 歳上の女の人に、お尻が椅子の枠にはまってしまったから取ってください、と言うのか?

 やめたほうがいい。

 では、どうすればいい?

 と、振り向いたところで、かん、と派手な音がして、美聖の体は前に投げ出されそうになった。

 足を踏ん張り直して、また踏みとどまる。

 踏みとどまった反動で腰を伸ばす。

 奇妙な痛みと軽み、そして涼しさを感じて、美聖は振り返った。

 うん。もとの世界だ。

 異世界に行っていたわけではないが、とても「もとの世界」感がする。

 立てた。

 ということは、お尻の輪っかははずれたらしい。

 見ると、バス停の標識の横に、円椅子の残骸が転がっていた。

 さっきの「かん」という音は、美聖のお尻にくっついた椅子の残骸がバス停の標識の柱に当たった音だったらしい。

 下のほうから上がってきた軽トラックが美聖の前を通り過ぎた。

 危ないところだった。いまのがどういうトラックか知らないけど、もう少しで、恥ずかしいところを見られてしまうところだった。

 そういえば、いまの「かん」という音で、やつが起きて来たりはしないだろうか?

 寝ぼけまなこで……。

 美聖は待合所の小屋をのぞいてみた。

 起きるどころか!

 やつは、さっきと同じ姿のままで眠っていた。

 規則正しく胸を上下させているのもさっきと同じだ。

 左膝を立て、右膝をベンチの下に投げ出しているのも、さっきと変わらない。

 世界は絶えず動いているというのに、よく、まあ、と思う。

 美聖はもう少し近寄ってこの女を観察してみることにした。

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