万有引力(下)
午前4時。最後の絵を描き上げた。
環世界。
やっぱり柚麻ちゃんは私の知らない世界を知っている。少し悔しいけれど、やっぱり確信する。私は、この子の引力に引き付けられている。
午前6時。私は目を覚ました。絵具の香りが漂っている。床には新しい絵具の汚れの跡。きっと母は怒るだろう。
「ん?」
ソファの裏に不自然な影。見ると、そこに柚麻ちゃんがいた。
「柚麻ちゃん」
呼びかけるが、応答はない。彼女は体育座りのまま眠っていた。
「柚麻ちゃん」
深夜、あれほど感情を吐露していた柚麻ちゃんは穏やかな寝息を立てている。
きっとこの子はずっと悩み続けるのだろう。いつもなにかに悩んで、苦しんで生きていくのだろう。私が去ったら、泣くのだろう。
「かわいい」
私は彼女の前髪をかきあげて、優しく唇を突き立てた。
「……やだ」
びっくりするほど頬が熱くなった。頬の温度が全身に広がって、心をつついた。
万有引力は、私にも確かに存在していた。
引っ越してすぐに、私はキャンバスに向かった。
広々としたアトリエ。専門学校時代の縁があって立派な部屋を借りることができた。さっそく絵筆を取り上げる。
何時間経っただろう。
キャンバスは白紙のまま。
窓からの景色は新鮮だ。ビルが立ち並び、夕陽がその間に差し込む。昨日まで住んでいた故郷とは全く違う町。この町にだって美は存在する。存在するはずなのに、なぜか今の私にはそれをくみ取ることができなかった。
「柚麻ちゃん」
今生の別れではない。
それでも、今は会えない。
私は、縋りつくように窓によりかかった。
空に浮かぶ星。都会の喧騒の中でもかろうじて見える光。けれどそれすら今の輝きじゃない。何年、何百年、いや、何万年もかけてやっと届く光なのだ。過去の輝きにすぎない。
過去の輝きだけでは、人は実存を確信できない。
過去の声だけでは、人はそれを現在に昇華できない。
もしかしたら、私がいなくなってせいせいしているかもしれない。
もしかしたら、私の残した絵を破り捨てているかもしれない。
もしかしたら、私のことなど忘れたがっているかもしれない。
もしかしたら、私がいなくなったあなたはすんなりと日常に戻ってしまうかもしれない。
柚麻ちゃんはそんなことを考える子じゃない。
そう思いながら、私は疑ってしまう。疑いはどこまでも深まる。
本当は、私のことなどどうでもよいのではないかという疑いは表層だ。
深まる。柚麻ちゃんの言葉はすべて芝居だったのではないか。
深まる。柚麻ちゃんは私から離れたほうがいいと思っているのではないか。
深まる。ずっとそう思っていたんじゃないか。
こうして、輝いた過去の輝きすら翳り、私は筆を持てなくなる。
違うのに。
あなたが私を向いていようとそうでなかろうと、私はあなたを想っている。それこそほんとうの愛だろうに。
わがままな私は、目の前にあなたがいなければ信じられない。
「なんだ、柚麻ちゃん」
星の光が滲む。過去の光すら滲んでしまう。冷たい床の温度を感じる。
私は、下手な笑顔を浮かべた。
「私の方じゃんね……」
星は回る。自分の軌道を回る。
一つになれない連星は、今はちぎれて回る。
互いの引力は、今はない。
泣き腫らした瞳に見えるのは、青白いダイオードの光だけ。
星の見えない空。都会の影。車の音と信号機の点滅。
これから続く孤独に、私は思わず咳をした。
さよならから始まる 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
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