第26話:深淵の中で(前編)【✦】――痛みの記憶


 マーティは、暗闇の中、目覚めた。


 光の存在しないその空間は、気を抜けば上か下かも分からなくなりそうで、おぼつかない心地の中、歩みを進めていく。


 ふと、耳元でなにかが囁いた。

 驚いて振り向けば、そこには――見覚えのある人影が立っている。

 それらは口々に何かを言っていた。


 遠い記憶を引きずりだすような罵声、嘲り、否定、皮肉……。

 負の感情に訴えかける、言葉の数々。それらはマーティの不安を煽り立てようと、必死に語彙を吐き出している。


 しかし、マーティには、不思議なことに、なんの感情も湧かなかった。

 彼らは、この世界に存在しない遠い記憶の遺物であり、マーティ自身が、体験しなかったものだ。


「俺は、なにをしてるんだろうな……」


 ここまで来たのは、これらに耳を傾け続ける人生を送るためじゃない。

 表情の分からなかった人間の顔が、ようやく分かった気がした。


 有象無象の影を素通りしてマーティが前へ進む。その背中を見た彼らは呆然としていた。


 影の人々は腕を下ろし、わずかな時間だったが、静かにマーティを見送る。

 それらはゆっくりと砂と化すと、細かな音をたてながら、風に巻かれて消えていった。




 暗く、長い道だった。

 歩く度に、次第に銀色の波紋が広がり、生と死の狭間を思い出す。


 ふと、かすかな呻き声が耳に入る。

 それは歩みを進めるたびに鮮明になり、泣き声に変わった。


「……兄さん?」

「父さん、母さん。違う、もう嫌だ。こんなこと、したくないんだ。したかったわけじゃない」


 そこにいたのは、普段の理性的なスフェルとは思えない姿だった。

 彼はぶつぶつとなにかを呟いたかと思えば、大声をあげながら苦痛に悶え、顔を覆い、うわごとのように許しを乞うていた。


 うつろに濡れたその瞳がマーティを捉えたとき――彼は細かな息遣いをはじめて這いつくばり、マーティの足に素早く縋りついた。


「――マティアス、マーティ! 許してくれ。お前にずっと嘘を吐いていたんだ。嘘を……」


 スフェルの思いが、流れ込んでくる。

 スフェルの痛み、嘆き、悲しみ。父と、母の――死のビジョン。


 マーティは一瞬、それらの事実を読み取って息を呑んだ。



「俺には生きている価値がないんだ。ネイロンにも見放されて、お前にも嫌われた……。もう、俺にはなにも残っていない。守るものも、存在価値も、なにもない」


 スフェルは、かすれた声で「息ができない」と震えた。


「愛してる……マーティ、俺はお前がいないと、生きていけないんだ……」


 スフェルがその場にうずくまり、子どものように泣き声を漏らした。


 誇り高い兄が、これほどが深い傷を抱えていたことを理解し、マーティは胸に鋭い痛みを感じる。

 それと同時に、長い間――彼の悲しみに無知でいた罪悪感、自責の念が押し寄せた。


「スフェル」


 兄を呼ぶ声が、震える。

 事実を知って、怯まなかったわけではない。だが、その手が完全に止まることはなかった。


 マーティは膝を折り、うずくまる兄の身体を抱きしめた。

 すると、かすかな声を漏らして、大きな身体が硬直するのを感じる。


「スフェル。どんなことがあろうとも、俺はスフェルを愛してる」


 涙で濡れたスフェルの瞳が、大きく見開かれる。


「今まで俺は、なにも知らなかった。……もう、ひとりで抱え込まないでくれ。楽しいことも、辛いことも、どんなことでも、俺は兄さんの分かち合いたいんだ」


 今にも崩れ落ちそうな兄の身体を支えて、マーティはその髪に頬を寄せた。

 こうして甘えるように兄に触れたのは、抱きしめたのは、いったいいつぶりだろう。

 子どもだった当時、頼りがいがあって大きく感じた彼の身体は、マーティが大人になった今も、やはり大きく感じる。


「俺は兄さんがいるから生きていける。だから、自分に価値がないなんて思わないでくれ。もし好きな人がいるのなら、その人とも幸せになってほしい。……誰よりも、幸せになってほしいんだ」


 スフェルの手がマーティの背中へ、ゆっくりと、縋るように回される。


「だから……帰ろう。俺たちのいる場所へ」


 そうつぶやくと、スフェルの身体は砂のように溶けて、さらさらと消えていった。



 この世界は、痛みの記憶を映し出す場所なのだろうか。

 進む先に――出口はあるのだろうか。


 マーティは目元を拭い、まっすぐと前を見た。不思議なことに、恐怖はない。

 まるで緊張と重圧の殻から解き放たれたように、心は凪いでいた。




 歩き続けた先で、ふと、霧のようなもやが現れる。

 それは細かな動きで宙を漂ったかと思えば、ひなびた村の景色に変化した。


 自然の匂いすら感じられる空気に気を取られたマーティだったが、不意に話し声が耳に入った。


「俺は見たんだ。あの女が宿の前で、男から金を受け取っていたところをよ」


 質素な組み石の家の前で、そう話す田舎なまりの男に、美しい女性が「そんなの嘘よ」と、子どもを守るように抱きながら訴えた。

 子どもも首を横に振って「お母さんは病気で、ずっと家から出られないんだ」と声を張り上げている。


 上等なコートをまとった男が顎で合図すると、役人が女の腕から、子どもを引き剥がした。


「――やめて! 私からオーグストを奪わないで、お願い!」


 涙に濡れた悲痛な悲鳴は、虚空へ来ていく。


 固く重い扉の閉まる音、そして、冷たい靴音と鎖の音。

 石造りの部屋の中、傷が残らぬように加工された鞭を持つ男の姿がそこにはあった。

 カルレイヴで見た、貴族の男。――オーグストの父親。


「二度とあの女の元に戻らぬと言え」


 冷酷な声が、石造りの部屋に反響する。

 魔法をかけられ、動きが鈍くなった少年は、顔を歪めながらも屈することなく男を睨んでいた。


 ――オーグスト。許されざる光景にマーティが駆け出そうとすれば、男が霧のようにその場から消え失せる。

 少し遅れて、幼いオーグストより少し年上の少女がその場に現れた。


 色白で幸薄な印象を受ける少女の瞳は、どこかオーグストの面影を感じさせる。

 彼女は上等なドレスこそ着ていたが、表情は重く萎縮した様子だ。


 うずくまるオーグストに駆け寄り、少女は涙を流しながら「辛かったよね」、「ごめんなさい」と謝罪し、慰めるようにその背を抱きしめた。


 痛みの中、彼女の抱擁で母の体温を思い出すオーグストの感情が、伝わる。



 場面は切り替わり、少し成長したオーグストが、綺麗な服をすり切らしながら、枯れ木の森を抜け、走っている。


 彼の質素な住まいは壊され、ようやく辿り着いたのは、共同墓地に作られた粗末な墓標だった。


 土で衣服が汚れるのもかまわず、彼は膝をつき、泣いていた。

 悲痛な記憶の光景だった。



 マーティは丸められた彼の背に手を伸ばし、震える肩に触れた。

 涙で滲んだ灰青の目が、マーティを見上げる。


「オーグスト」

「守れなかったんだ」


 その声色は、マーティが知る声より若い。オーグストは立ち上がってマーティに向き直った。


 本来であればマーティを見下ろす彼だが、今のオーグストの視線の高さは、マーティと、ほとんど同じだ。


「あいつらは、あの男の……貴族の言葉に懐柔され、母を悪だと断じた。俺がもっと訴えるべきだった。早く逃げ出すべきだった。なのに、もういない。俺を愛する人は、もう……」


 マーティは、その痛ましい瞳に流れる涙を拭った。

 オーグストが嗚咽を漏らし、それを受け入れる。


 まだ幼い彼の頬に、マーティは慰めるように口づけた。


 オーグストは喉をしゃくり上げると、なにかを思い出したように、無垢な瞳をマーティに向けた。


「マティアス……、……そうだ……。お前だけが、俺に光を示してくれる……」


 彼の唇が、なにかをたしかめるようにマーティの唇へ触れた。その瞬間、幼い身体に、温かい光が満ちていくのを感じる。


 気づけば、目の前の彼は、見慣れた大人のオーグストの姿に戻っていた。

 優しくも、縋るような口づけの感触に、マーティは背中に腕を回して応えた。


「オーグスト……」

「お前だけが、俺を照らしてくれる。……お前だけが俺を導いてくれる、……だから」


 見下ろすその目は濡れていても、たしかな希望が宿っていた。


「俺は、もう迷うことはしない」


 その表情に、迷いはなかった。

 信頼や決意の笑みを浮かべたオーグストは、砂のように形を変えていく。


 舞い上がる砂がすべて消えていくのを見届けると、マーティは暗闇の奥へとさらに進んでいった。

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