第7話 視線と距離感の誤差

 体育のペア決めが発表されたとき、私は思わず小さく息を吐いた。またあの人と一緒。兄さんと。


 別に嫌なわけじゃない。むしろ──

 むしろ、他の誰かに譲りたくないと思ってしまう時点で、私の中では答えが出てる。けれど、毎回どうしていいかわからなくなる。

 会話の距離、目線の高さ、呼吸の間──全部、変に意識してしまってズレる。

 体育館の隅で並んだとき、兄さんのジャージの袖がほつれているのが目に入った。


「……縫っとこうか?」


 口に出した瞬間、しまったと思った。“妹っぽすぎる”って、言われるかと思ったから。

 でも兄さんは、ただ「自分でやるよ」ってだけだった。

 

──そうだよね。私なんかが出しゃばらなくても、あの人はひとりで何でもできるんだ。


視線をそらしたとき、隣から唐突な声がした。


「美咲ちゃん、俺と組んでみない?」


 三谷だった。兄さんの親友。なんというか……軽い。


「は? なんで?」


「だって兄貴が使えないなら、俺がもらうしかないっしょ?」


 その軽口に一瞬だけムッとした。けど、同時にちょっとだけ安心もした。


(……この人、きっと本気で狙ってるわけじゃない)


 だから私はほんの少しだけ冗談を返す。


「……別にどっちでもいいけど。あなた、パス受け損ねたら叩くから」


「こっわ! でも、ぜひお願いします!」


 三谷は陽斗の隣を離れて、私の隣に入ってくる。

 正直に言うと少しだけ期待してた。兄さんがなにか言ってくれるんじゃないかって。


 ──でも、兄さんは何も言わなかった。


 こっちの方を見てるのに、なにひとつ反応を返さない。どうしてそんなに無表情でいられるのか、本気でわからない。

 ドリブルからのパス練習。私は意識して三谷に強めのパスを出した。それでも彼は、軽く受け止めて笑ってみせる。


「ねえ、美咲ちゃんさ」


 並んで歩きながら、三谷が小声で言った。


「なんで陽斗のこと、“兄さん”って呼ぶの?」


「……なにそれ」


「いや、別に深い意味はないけど。たまに“兄さん”って響き、ちょっと苦しそうに聞こえるなって思っただけ」


「──関係ないでしょ」


「うん。関係ない。……でも俺、あいつの親友だから、ちょっとだけ手伝ってやりたくなる時があるんだよ」


 言い終えた三谷は、何も言わずに前を見たまま、次のプレイに入っていった。


 私も何も返さなかった。

 でも、胸の奥にひっかかったまま残る。




 ──“手伝う”って、何を?





 三谷のその言葉が、ずっと耳の奥で鳴っていた。昼休みになっても、雑音みたいに頭から離れてくれない。

 教室のざわめき。女子たちの笑い声。


「美咲ー、食堂いこ」

「今日焼きそばパン勝負なー」


とか、いつもなら無視しない声が今日は遠かった。


「……いい、行かない。ちょっと休む」


 曖昧に笑って適当に誤魔化して、誰もいない廊下へ抜ける。図書室も保健室も面倒で、辿り着いたのは旧校舎側の踊り場だった。


 カーテンもない、窓のない、狭い階段の途中。

 誰も通らないここで、スマホを取り出す。ロック画面に並んだ、兄さんの通知履歴。ゼロ件。

 昨日の夜、プニのことで何か言ってくるかと思ったのに──なにも、なかった。

 あんなにじっと見てたくせに。“食べる”ってわかって、あんなに目を細めてたくせに。

 私がそれを聞いたとき、「別に」って、あっさり流したくせに。


「……ほんっと、バカ」


 自分に言ってるのか、兄さんに言ってるのか、わからない。でも、どっちでもいい。今は。


 体育の時間、あんなのズルすぎる。袖、ほつれてたの直そうとしたのに。手、触れたのに。ほんの一瞬でも、こっち見てくれるかと思ったのに。

 パスを外したとき、「怒ってるの?」って聞かれて、“別に”って返した自分が、今になって悔しくて、歯ぎしりしそうになる。


(怒ってるに決まってるでしょ……バカ。なんで気づかないの)


(あんな顔で三谷と喋って……何笑ってんの……)


 三谷がなんなの?あの人、兄さんのことあんなに見てて。私の顔も、勝手に読んで、勝手にわかったふりして。


 “手伝ってやりたくなる”


──って、何それ。


 何を。何を手伝うの。私を、どうする気?

 ……そんなの、される前に壊したい。

 兄さんの袖、ほつれてた部分。わざと残しておけばよかった。誰にも触らせたくないから、私しか直せないってことにして──


 いや。違う。そんなの、私らしくない。

 妹だから。義妹だから。だから……


「……だから、こんなに気になるのは、当たり前でしょ」


 兄さんが誰と組まされるか。

 兄さんが誰と話してるか。

 兄さんが、どこを見てるか。


 気にするのは、家族として当然で──

 でも、その「当然」がぜんぶ言い訳になってきてるのも、自分でわかってる。


 “兄さんのこと、誰にも渡したくない”


 って思った瞬間、私もう妹やめてるのかもしれない。


 でも──でも、それでも──


 兄さんが私を「妹」としてしか見てないなら、もうそれでいい。だったらせめて、誰よりも“義妹”でいさせて。


 スマホのメモ帳を開く。

 “観察記録:兄さんの朝の動き・7:43 家を出る。7:46 美咲と並ぶ”


 バカみたいに細かい記録。ぜんぶ自分で打ったやつ。なのに、消せない。

 消したら、自分が何を見てたのか、何を欲しがってたのか、直視することになってしまうから。


 ──チャイムが鳴った。昼休み終了。


 気づけば、何も食べてない。でも食欲なんて最初からなかった。この感情が何かなんて、知らない。

 でも、兄さんの隣に立ってる“誰か”の顔を想像しただけで、背筋が冷たくなる。




 それだけは──絶対に、許せない。




(……そもそも、兄さんは──あの“ダンジョン”で、何してるの?)


 最初にそれを見たとき、ただの異変かと思った。でも今ではあれが兄さんの「生活の一部」になっている。

 兄さんが物置から戻ってきたとき、ジャージの袖に赤黒い汚れがついてた。拭ったみたいに雑な形で、すぐに洗濯機に押し込まれて──

 それが何かなんて、聞かなくても、なんとなくわかった。

 本人は何も言わなかったけど、あのときの目が──

ほんの少し、冷たくて、遠くを見てた気がする。

あれは、私の知らない、兄さんの顔だった。


(なに、それ。誰にも見せないくせに……)


 朝、リビングに降りてきたときの兄さんの顔が、少しだけ眠そうだった。いつもどおり「おはよう」って言ってたけど、声がわずかにかすれてた。

 ちゃんと挨拶して、普通に箸を持って、味噌汁をすすって──でも、目線の置き方が少しだけ変だった。

は話してる相手じゃなく、何か別のものを見てるような目をしてた。

 声も、どこか引っかかってた。私の問いに返事はあったけど、タイミングがワンテンポ遅れてて。

 視線の端が妙に冷たくて、声の抑揚もほんのわずかに浮いてて。


(──兄さん、何考えてるの?)

(ダンジョンに行って、誰とも会わずに……何をやってるの?)


 昨日、プニの話を聞いたときの目──あれは、私に向けられたものじゃなかった。確かに何かを、ちゃんと見てる。

 でも、私じゃない“なにか”を、ちゃんと見てる。


 聞いたら教えてくれる? 絶対に違う。


「別に」


 って言うに決まってる。私のことは“外の世界の人”みたいにして、踏み込ませてくれない。


(……じゃあ誰には話してるの? 三谷? それとも、他の誰か?)


 そこで無意識に指が震えた。スマホのメモを開いて、“兄さん プニ 夜”で検索する。

 観察記録が出てくる。自分で書いた、意味不明なほど細かいログ。


 記録してるのは、事実だけ。でも、それを知っていたいって思ってる理由は──


 とうの昔に、“ただの妹心”なんかじゃなくなっていた。だから、たまには思う。

 だったら、いっそ直接、見に行ってしまえばいいんじゃないかって。

 

 ……もし今日、兄さんがまた、あの物置に行くなら。

 玄関で待ち伏せして、「私も行く」って、勝手についていく。理由なんて、後からどうとでも言える。

買い物でも、付き添いでも、母に頼まれたってことにすればいい。


 でもほんとは、ただ──

 兄さんが、私に見せてくれないものを見たいだけ。

 見逃したくない。それだけ。


 だけど。あそこに、誰か他の人間が入ってたとしたら。


 誰かが、兄さんと並んで作業して。

 誰かが、兄さんと笑って。

 誰かが、兄さんのスケッチを見て「すごいね」なんて言ってたとしたら。


「…………っ」


 拳を握る。息が詰まる。視界がかすむ。あの場所に私が入れないなら、せめて──

 兄さんの脳内に、誰よりも深く入り込みたい。兄さんの思考、計画、感情の流れ。全部先回りして、全部覚えて、全部受け入れて──


(私が一番、兄さんをわかってる。そうじゃなきゃ、イヤ)


 スマホを閉じて、そっと額を壁につけた。

 ──“妹だから”って、ほんと便利。

 でももう、それだけじゃ足りない。足りないのに、どうしたらいいか、わからない。


 私は兄さんのそばにいたい。でも、兄さんが私を見ていないってことだけは、わかってしまった。


 それが、こんなにも、苦しいなんて。

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