第1章:彼女は、そこにいた


太陽は、自分がどこに立っているのか、理解できなかった。

風が吹いている。けれどそれは、画面の中で見ていたような“効果線”の風じゃない。

本物の風だった。頬を撫で、髪を揺らし、草木をそよがせるような。


視界の先には、桜が舞っていた。

春の終わりのような、少し切ない色をした空と、あたたかい匂いがする風。

ここは――あの漫画の、舞台だ。


「まさか……嘘だろ」


太陽は、ゆっくりと周囲を見渡した。

アプリで何度も見たあの場所。主人公たちの通う高校の坂道。

丘の上にあるベンチ。

桜並木。

そして――


そこに、いた。


白いカーディガンに紺色のスカート。風に髪を揺らしながら、静かに佇む少女。

彼女は、太陽の方を見ていた。

名前を知らない人が見ても「美しい」と感じる顔立ち。だけど太陽は、その目を、表情を、何百回と知っていた。


南川鈴音。

彼の“好きなキャラ”だった。

だけど今、彼女は“絵”でも“台詞”でもなかった。

そこに“生きて”いた。


「君……だよね……?」


太陽がそう言うと、鈴音は少しだけ笑った。


「うん。やっぱり、あなたなんだね。太陽くん」


「なんで俺の名前……」


「私、ずっと呼んでた。声にならない声で。届くかどうかもわからない場所から――あなたのことを」


その声はまるで夢の中のようで、でも確かに彼の胸に染み渡った。


太陽は気づいた。

これはただのファンタジーじゃない。

これは“本当に続きが止まってしまった物語”の中。

彼は――入り込んでしまったのだ。


「ここは……もしかして、『君と数センチメートルの恋をする』の中なのか?」


「うん。そして……この物語は、もう止まっているの」


鈴音は遠くを見るように言った。

その目に浮かぶ寂しさと、静かな決意。


「私たちの時間は、あのページで止まってる。あの事故の手前で、全部……消えてしまいそうなの」


太陽の背筋がゾクリとした。

彼女の言う“事故”とは、あの物語の最終ページ――橘ユウマが車に跳ねられそうになる、まさにその瞬間。


「じゃあ、ユウマは……」


「いないの。主人公がいないから、この世界も進めない。

でも代わりに、あなたが来てくれた。だから……お願い。私と、この物語の続きを――」


そのとき、太陽の頭の中に鋭い痛みが走った。

息が詰まるような眩暈。何かが崩れるような音。

そして――


彼の記憶が、少しだけ“上書き”された。


気づくと彼は、白いシャツにブレザー姿だった。ポケットの中には、生徒証が入っていた。


《橘ユウマ》


名前が――変わっていた。


鈴音が小さく囁く。


「……ようこそ、ユウマくん」


太陽は、もはや何も言えなかった。

けれど彼の胸の奥で、何かが強く点った。


この世界で、彼は“橘ユウマ”として生きる。

止まってしまった物語を、再び動かすために。

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