解釈小説創作論
蓬葉 yomoginoha
解釈小説創作論
私は解釈小説をよく書いているので、その創作のときに気を付けていることをここに書きます。
①解釈に際して
それは、リスペクトを忘れないことと、自由に解釈を行うことです。
解釈小説はあくまで二次的なものです。それを作った作曲者様、作詞者様がいて初めて成り立つものです。そのことに対するリスペクトを失くしてはいけないでしょう。一方、読み手の存在も大切です。
ロラン・バルトという哲学者は次のように語っています。
「読者の誕生は「作者」の死によってあがなわなければならない」
ある作品(「テクスト」)があるとして、それをどう読み解いていくかは読者故人の解釈や自由にゆだねられるべきである。文学テクストからは、作者が込めた唯一正しいメッセージなど読み取れず、読者による多様な解釈のみが存在する。それならば、テクストの読解は読者に担われているのであり、作者の死が到来する。
皆さんはどう感じるでしょうか。
私はこれはとても妥当でとても過激と考えます。
多様な解釈があることによって、その作品はより深みを増していくでしょう。もしもただ一つの真実だけがあって、ほかの解答は誤りというのであれば、それは一つの在り方ではありますが、味わいはなくなってしまうかもしれません。その意味では、解釈にあたってとても重要な視座を、バルトは与えてくれています。
一方、それでも作者の意図は尊重されるべきと私は考えます。
私が解釈をするときには、その唯一の意図を探ることを目指している節があります。もちろん、それは容易ではないです。不可能と言ってもいいでしょう。では無意味かというとそんなことはないでしょう。むしろそこにこそ、楽曲を楽しむ意味があると思います。
解釈を押し付けたり作品を貶める解釈をしたり、一なる真実を振りかざして解釈を消し去ろうとする行為に問題があるのであって、読者が多様な解釈をすることと作者が真実を作ることには問題はないはずです。矛盾もしないはずです。
つまり、作者の死を要求するのでも、読者の解釈を奪うでもなく、
「作者と読者とのあいだの寛大性に基づく契約」(サルトル)がそこにはあるのです。
読者は作者の創造の自由を、作者は読者の読解の自由を互いに承認し合うことで、作品は出来上がる。
作品は作者だけの物でも読者だけの物でもないというのが、私のスタンスです。
※なお、以上の部分は伊藤直『戦後フランス思想』(中公新書、2024年)を参照しました。
②執筆に際して
そのうえで私が解釈小説を作る際、もしくは楽曲解釈をする際に心がけていることは次のことです。
1 あくまで歌詞を重視する。
2 いくつか解釈の幅を考える。
3 他人の解釈は参考にするけれど、鵜吞みにしない。
4 言葉遣いに気を付ける。
そんなところでしょうか。
まず、歌詞は原則歌うためにつくられたものです。
そこには、リズムの都合で入らなかった言葉もあれば、逆に差し込まざるを得なかった歌詞もあるかもしれません。後者は判別のしようがないのですが、前者については書き手の想像力が問われます。
歌詞と歌詞の間の間隙をどう埋めていくかを考えるのは苦しくも楽しい営みです。
けれど、孤独ではない。
もしかしたら、私が求めているのは、そこなのかもしれませんね。
文章を書くのは大部分が自己対話ですが、解釈小説にはそこに他者が顔をのぞかせる。だからこそ、私は解釈が好きなのかもしれません。
それから、これは賛否両論別れるでしょう。しかし、あえて言います。
私は、解釈小説を作るとき、よくほかの作品の歌詞も参照します。
たとえば、先日投稿させていただいた「Tender Rain」の解釈小説。曲名は言いませんが、とある楽曲の歌詞や雰囲気も一部取り入れています。
そうなってくると、今、ふと思いましたが、私の作品は少し解釈小説の枠をはみ出ているのかもしれません。
とはいえ、そのことによって深みが増していることを信じます。
解釈小説創作論 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
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