夏の夜空にひときわ明るく

幽彁

ながれぼし

夏、お盆前最後の部活終わり。人の家の庭のミカンの木に、つがいのアゲハ蝶がいちゃついていた。そんなふうに気をちらしながら住宅街を蛇行運転していると不意に、ちかっと視界の端に瞬くものが見えた。小さな緑色の光だったと思う。そうして視線をそちらにやってすぐ、すぅっとその緑色の光は斜め下に流れ、消えた。

願いを唱える暇なんてなかった。それが流れ星だったと気が付いたときにはもう星は落ちて、私は馬鹿みたいに口を開いたまま星の消えたあたりを眺めていた。


思えばその時私は少し、いやかなり夏の暑さと疲労に頭をやっていた。学校と家を馬鹿真面目に自転車で往復するばかりの日々にも飽きていた。だからなのか、突如私は適当に回していたペダルをぐんと踏み込み、家とは見当違いの方向、丁度流れ星の落ちた方に向かって走り出したのだった。


直射日光が無い分だらだら汗を流すようなことこそないものの、息苦しいほどの蒸し暑さがあった。それも、住宅街を離れて建物もまばらな海の方に抜けていくと、ましになってくる。ただ、街灯や家の明かりは確実に減っていて、ついさっき亀を轢きかけた。そうしてえっちらおっちら自転車をこいでいれば、やがて海が見えてくる。現実的に考えて、無計画に自転車で冒険のできる限界だ。


別に何か非現実的な出来事を期待していたわけでもなく、ただきっかけに乗っかって夏特有の何かうずうずするみたいな感じを発散したかっただけなので、海まで行って、海水に手でも突っ込んだら帰ろうかと思っていた。ところが起こってしまったのだ、流れ星以上に非現実的なことが。


砂浜に天使が倒れていた。天使は薄らと光っていて、暗い海辺でもはっきりと見えた。天使の白い羽や、なめらかに濡れて光る白い足などには海藻が絡まり、砂に汚れている。私がマンガの登場人物みたいに頬をつねったのも仕方のないことだと思う。もう、私はどこからが現実で、どこからが幻覚の類なのか分からなくなっていた。


でもこの際、幻覚でも構わなかった。私はもうすっかりこの非現実的な出来事の連続に酔ってしまって、天使の柔らかそうな頬に手を伸ばし、そっと指先でつついてみた。指先で触れた頬は指先は人間と同じように沈み、柔らかく跳ね返してくる。触れたとたんに溶けてなくなったりはしなかった。現実的な感触に驚いて、どきどきしながら手を引っ込めると、不意に天使と目が合った。冷や水を浴びせられたような気がした。見られていた、勝手に触ったのを。非現実だと思っていたから触れたのに、相手はちゃんと生き物で、緑色の瞳には意思があった。驚いて思わず距離をとると、天使はかすかに首を動かしてこっちを見て、こう言った。


「あれ、リツじゃん、久しぶり」

「・・・あ?」


天使の非現実的な美貌から、なんだか妙に懐かしい声がした。


「ほら、リツ、私だよ、私」


天使がゆっくり立ち上がって、羽をばさばさやって海水を飛ばす。天使の知り合いなんていなかった筈なのに、そいつは私の知り合いみたいな口をきいた。そして、


「ノエルだよ、セツ」


もうずっと行方不明の私の親友の名を告げて、せつなげに笑うのだった。

その表情に、声に、彼女との思い出が全部がフラッシュバックして・・・。




「おい君、大丈夫か!!」


痛む頭を押さえながら目を開けると、朝日にきらきら光る海と、朝のランニング中といった格好の老人が視界に映った。ああ、あれは夢だったのか。それはそうだ、あんなものが現実な訳がない、という気持ちと、いや、あれもひとつの本当だったのだ、という気持ちがせめぎあう。まだ夢見心地のままで、老人に大丈夫です、と返す。


「大丈夫ならいいが・・・そいつは一体どうしたんだ?」


老人に指をさされ、いったい何がどうしたんだと自分の格好をまじまじと見てみると、自分がなにかぶよぶよとした人のような形のものを、大事に抱えていることに気が付いた。


それはよく見ると本当に、人間のかたちだった。

同時に、私はそれがと確信した。


要は、自分はもうずっと波間を漂ってぐじゅぐじゅに膨れて腐った水死体を、大事に抱えて眠っていたのだ。それがわかったとたん、耐えがたい腐臭が鼻をついて吐きそうになる。生理的な涙が視界をにじませる。もはやこんなにおぞましいものをどうして今まで抱えていられたのか分からない。親友パワーだろうか、それとも暑さに頭をやられていたからだろうか。残念ながら後者のような気がする。


「すみません、これ、多分行方不明だった友達です。昨日探しに来て、そのまま疲れて寝ちゃってたみたいで」

「おお、そうかい。通報しといたから、そのうち警察が来る。自分で喋れるか?」

「はい、色々ありがとうございます」

「なに、礼には及ばんよ。友人さんのことは残念だが、気を強く持ちなさい」

「はい」


そうして砂浜を走って去っていった老人の姿を見送った。本当のことを言ったって信じてもらえないだろう。まだ少しぼんやりしながら海を眺めていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきて、なんだか現実に引き戻されたような気分になった。

しかし、家族は心配してるだろうな。夕飯はビーフシチューだって言ってたのにな、まだ残ってるかな、お腹空いたな。

あれ、救急車もいる。そうか、人が倒れてたら救急車だしな。なんか迷惑かけるな、ここには死人と、腹ペコの健康優良児しかいないのに。



ノエルは、幼馴染で、かけがえのない親友だった。キラキラネームが似合わないごくふつうの優しい少女で、名前をからかわれるたびに悲しそうに俯いた。彼女の家庭は複雑で、辛そうなときは母親に頼んで家で一緒に夕食を摂り、泊まらせた。ひたすら優しくて、純粋だった。だから優柔不断な彼女が初めて自分でした決断が自死だったのを私は信じたくなかった。


一体彼女の小さな体のどこにそんなエネルギーが秘められていたというのだろうか、私も、誰も気が付けなかった。あとで警察に、遺書を渡されたのだ。だから彼女が死んだことは知っていた、しかし入水だったので中々死体が見つからず一か月ほど経ち、ようやく私が見つけたのだ。


今思えばあの流れ星は、自分の中の第六感と言うか、そんな予感の象徴だったように思う。多分最近の天気とか、そろそろ迎えるはずだった彼女の誕生日だとか、そういうものが重なって何となく、そろそろ再会できるような気がしていたのだろう。


そうだ、早速精霊馬とか作っておこうか。彼女は自分の母親には会いに行かないだろうから、うちから迎えを出さなければ。全部終わったら、なすときゅうりを買いに行こう。割りばしは多分家にある。

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