『神様「透明人間にしてやる」俺「それだと網膜が光を捉えられず盲目になります」
アカミー
理系男が透明になる
【神様シリーズ:第三弾】
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午前0時。きっかり、その時間に俺は目を覚ました。
28年間生きてきて、一度も経験したことのない、あまりに唐突な覚醒だった。
「ん……なんだよ……」
社会人6年目、28歳。理系の大学院を出て、そこそこのメーカーで研究職に就いている。都内の1LDKで一人暮らし。趣味は休日にアニメを見ること。
だから、部屋の隅に浮かぶ半透明の人影を見た時、俺の脳はまず、その現象を合理的に説明しようと試みた。
「疲労による幻覚か。あるいは、低血糖が見せる幻影か……」
「よっ! 起きてる? 残念、どっちもハズレ。俺、神様」
コンビニのビニール袋みたいに半透明な、人型のナニカが、俺が昨日買ったばかりの限定版エナジードリンクを飲みながら言った。
「だ、誰の許可を得てそれを……というか、神様?」
「そう。お前、この前、道端で弱ってたセミ、木の枝に止まらせてやっただろ?」
「はあ、まあ……。どうせ数日で死ぬ運命でしたが、土の上で蟻に食われるよりは、と」
「そういう理屈っぽいとこ、嫌いじゃないぜ。ってことでご褒美だ。お前を『透明人間』にしてやる」
神様は、ドヤ顔でそう言った。
だが、俺の理性が、その非科学的な提案に待ったをかける。
「お断りします」
「は?」
「まず、透明になるということは、光が体を透過するということです。つまり、俺の網膜にある視細胞も光を透過してしまい、光を捉えられなくなる。結果、俺は全盲になります。それは困る」
「……ん?」
「次に、服の問題です。俺の体だけが透明になっても、衣服はそのままですよね? つまり、能力を最大限に活かすには全裸で行動する必要がある。公然わいせつ罪が適用されますし、何より風邪をひく。これも困る」
「あー……」
「さらに、他者との物理的接触の問題。俺の姿が見えないということは、他人は俺の存在を認識できずにぶつかってきます。満員電車やスクランブル交差点など、考えただけで恐ろしい。最悪、命に関わります。よって、受け入れられません」
俺が理路整然とデメリットを並べ立てると、神様はエナドリの缶をぐしゃりと握りつぶし叫んだ。
「ああもう! 理屈っぽい奴はこれだから面倒なんだよ! わかったよ! 神様パワー! 神様パワーで全部良いようにしてやる! お前は透明になってもなぜか見える! 服も一緒に透明になる! お前は自分の意思で、物に『触れる』か『透過する』かを選べるようにしてやる! これで人にぶつかる心配もねえだろ! 文句あっか!」
神様がキレ気味に指を鳴らすと、俺の体はフッと掻き消えた。鏡を見ても、そこに俺の姿はない。試しに壁に手をつこうとすると、スッと腕が壁を通り抜けた。
「じゃあな! せいぜい楽しめ!」
神様はそう言い残して消えた。
後に残されたのは、もはやチート級としか言いようのない能力と、それを全く望んでいなかった、一人の理屈っぽい社会人だけだった。
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透明人間。しかも、物理法則を無視して物体を透過できる。
それは、男なら誰もが一度は夢見る力。
俺も、夢見たことがないと言えば嘘になる。銀行の金庫に忍び込んだり、女子風呂を覗いたり……。
だが、28歳の社会人になった今、その夢はあまりに非現実的で、リスクに満ちていることを知ってしまっている。
(銀行の金庫……? 壁を透過して侵入できるが、監視カメラには映らなくても、赤外線センサーや重量センサーに引っかかる可能性がある。そもそも、捕まったら人生が終わる。割に合わない)
(女子風呂……? 犯罪だ。完全にアウト。それに、もしこの能力が突然解けたらどうする? 社会的に死ぬどころの話じゃない。まあ高校生の頃なら大興奮だっただろうが)
俺の頭の中の「リスク管理委員会」が、あらゆる欲望に「待った」をかける。
結局、俺が最初にやったこと。それは、会社のデスクに置いてきたスマホを取りに戻ることだった。
深夜のオフィスに、壁をすり抜けて侵入する。スリルはあったが、やっていることは忘れ物を取りに来ただけだ。あまりにスケールが小さい。
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翌日。俺は、この能力の真の価値を見出すことになる。
それは、朝の通勤ラッシュだった。
いつもなら圧迫地獄の満員電車。だが、今日の俺は違う。俺は脳内でスイッチを入れる。「透過:人や服、持ち物」「接触:電車」と。
ホームに電車が滑り込み、ドアが開く。俺は降りてくる人の波も、乗り込もうとする人の壁も、全てを幽霊のようにすり抜けて、車内の一番奥へと進む。人の圧迫感も暑苦しさも、何も感じない。残念ながら空気は淀んでいたが。
俺は人々の体をすり抜け、悠々と席の前まで移動する。そして、人が座っている席にそのまま腰かけた。俺は人をすり抜け椅子に接触することができるため、乗客に重なり合うように座ることができた。俺は、自分専用の聖域を確保し、優雅に読書を始める。
「……最高だ」
俺は、この能力の正しい使い方を理解した。
これは、世界を征服するための力じゃない。このストレスフルな現代社会を、少しだけ快適に生き抜くための、ささやかなライフハックスキルなのだと。
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俺の生活は、透明人間スキルによって劇的に改善された。
休日の過ごし方も変わった。チケット代が数万円するような人気アーティストのライブも、プロ野球のクライマックスシリーズも、俺にとっては無料のエンターテイメントだ。厳重な警備も、分厚い壁も、俺の前では意味をなさない。俺は壁をすり抜け、誰にも気づかれずに会場に忍び込み、特等席で最高のパフォーマンスを堪能する。
平日の夜、仕事で疲れた体を引きずって向かうのは、ビルの上層階にある会員制の高級スポーツジム。もちろん、俺は会員じゃない。閉館後、誰もいなくなったジムに壁をすり抜けて侵入し、最新のマシンを独り占めする。貸し切り状態のプールで、東京の夜景を眺めながら泳ぐのは、何物にも代えがたい贅沢だった。
街を歩いていて疲れたら、近くの高級ホテルに入る。清掃が終わったばかりの、まだ誰も使っていない空き部屋を見つけ、壁をすり抜けて侵入する。ふかふかのキングサイズベッドに倒れ込み、優雅に昼寝を決め込む。誰にも邪魔されない、完璧なプライベート空間だ。
満員電車は快適になり、エンタメもフィットネスも、最高級のものを無料で享受できる。お得感はある。だが、どこか虚しい。よく考えると、多少お金があればできる程度の経験だ。チート級のスキルがあるのに、こんなことしかやれないのか?
どこかモヤモヤしながら過ごす。そんな俺の日常に、一輪の花が咲いた。
2歳下の後輩社員、田中さんだ。小動物系のルックスと人懐っこい笑顔で、今月他部署から異動してきたアイドル的存在。俺も例に漏れず、彼女のことが少し気になっていた。今度、ご飯でも誘ってみようか。そんな淡い期待を抱いていた矢先のことだった。
同期との飲みの席で、衝撃的な噂を耳にした。
「おい、知ってるか? 田中さん、うちの課長と不倫してるらしいぞ」
あの仏頂面のハゲ課長と、天使のような田中さんが? 信じられない。信じたくない。だが、火のない所に煙は立たない。俺の理屈っぽい脳が、事実確認の必要性を訴えかけてくる。
そして、俺にはそれを可能にする、禁断の力があった。
翌日、俺は決行した。
田中さんが席を外したのを見計らい、スッと体を透明にする。倫理観が警鐘を鳴らすが、好奇心がそれに勝った。俺は彼女のデスクに近づき、スリープ状態のPCを覗き込んだ。
(パスワードは……彼女の誕生日か? 安直だな)
ロックを解除し、チャットツールを開く。そこには、課長との甘ったるいやり取りが、これでもかと並んでいた。
『明日の出張、楽しみにしてます♡』『部長には内緒ですよ?』
ああ、黒だ。真っ黒だ。
俺は落胆しながらも、置いてあるスマホに手を伸ばした。プライベートな領域に踏み込む罪悪感は、もう麻痺していた。
スマホにはロックがかかっている。だが、透明化できる俺は彼女がスマホをいじる時に近寄り番号を記憶していた。ロックが解除された。
そして、俺は見てしまった。
メッセージアプリのリストには、課長だけでなく社長、今年入ったばかりの新卒イケメン、さらには取引先の担当者まで、ずらりと男たちの名前が並んでいたのだ。内容は、どれもこれも男女の関係を匂わせるものばかり。
彼女は天使などではなかった。あらゆる男を手玉に取る、恐るべき悪女だったのだ。
俺は、静かにその場を離れた。
失恋の痛みと、人間の業に対する言いようのない虚しさ。何かでこの感情を洗い流さなければ、やっていられない。
俺は、ふらふらと最上階の役員フロアへ向かった。壁をすり抜け、社長室に侵入する。豪華な革張りのソファ、壁一面の本棚。その一角に、ガラス扉のついた棚があった。中には、いかにも高そうなウイスキーのボトルが並んでいる。
俺は、一番ラベルが古そうなボトルの封を切り、ラッパ飲みした。
アルコール度数40度の液体が、喉を焼く。だが、その熱さが、ささくれた俺の心を少しだけ癒してくれた。
ボトルを半分ほど空にしたところで、俺は満足し、誰にも気づかれることなく会社を後にした。
透明人間になって手に入れたのは、世界の真実を知る権利と、それを誰にも言えずに一人で抱え込む孤独だった。
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そんなある日のこと。
俺はいつものように、透明になってデパ地下を散策していた。目的は、タイムセールで半額になる高級ローストビーフだ。
その時、俺の目の前で、一人の老婆のバッグから、男がスッと財布を抜き取るのを目撃した。スリだ。
(どうする……!?)
警察を呼ぶ? いや、間に合わない。
大声を出す? 俺の姿は見えない。誰が叫んでいるのかわからず、パニックになるだけだ。
俺は、生まれて初めて、この能力を「正義」のために使おうと決意した。
俺は透過モードで、混雑する人混みを幽霊のようにすり抜ける。男の背後に回り込むのは一瞬だった。
そして、男が次の一歩を踏み出す、まさにその瞬間。俺は透過モードを解除し、物理的な実体となって男の進路上に足を差し出した。
男は、何もないところでつまずき、派手にすっ転んだ。その手から、財布がポーンと宙を舞う。
周囲の客が「きゃあ!」「大丈夫ですか!?」と駆け寄る。
「そりゃ、あたしの財布だ!なんであんたが持ってんだ!」
老婆が叫び、警備員も飛んできた。
財布は無事に老婆の元に戻り、男は取り押さえられた。
俺は、再び透過モードになって、誰にも気づかれることなく、その場を離れた。
胸の中には、ヒーローになったような高揚感……は、なかった。
あったのは、奇妙な疎外感だけだ。
俺は確かに事件を解決に導いた。だが、誰も俺の活躍を知らない。感謝されることも、称賛されることもない。俺はただ、そこにいない人間として、全てを見ていただけ。
まるで、世界という名の映画を、観客席から一人で眺めているような感覚だった。
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結局、俺はローストビーフを買いそびれた。
とぼとぼと夜道を歩いていると、公園のベンチに、見覚えのある半透明な姿を見つけた。
「よぉ。能力、活用してるか?」
神様が、今度はカップ焼きそばをすすりながら言った。
「まあ、それなりに、セコいレベルで活用させてもらってますよ」
「だと思った。お前みたいなタイプは、どうせ大した悪事はできねえだろうなって」
「……この力、なんなんでしょうね。最強のようで、最強じゃない。自由なようで、孤独だ」
俺がそう言うと、神様は焼きそばをすするのをやめ、真面目な顔で(のっぺりしていてよくわからないが)言った。
「どんな力も、使う奴次第だ。お前にとっちゃ、その『セコい使い方』が一番合ってるんだろ。世界を救うことも、世界を滅ぼすこともできる力で、社長のウィスキーをラッパ飲みする。それもまた、一つの幸せの形ってもんよ」
神様の言葉は、妙に腑に落ちた。
そうだ。俺はヒーローになりたいわけじゃない。世界を支配したいわけでもない。
ただ、平穏な日常を、少しだけストレスフリーに過ごしたいだけだ。
この力は、その目的のためには、オーバースペックだが、非常に便利だ。
「……あざっす。なんか、スッキリしました」
「おう。じゃあな」
神様はそう言って、またフッと消えた。
俺は、家に帰る。明日は月曜日。また、仕事が始まる。
透明人間になった俺の人生は、劇的には変わらない。でも、以前よりほんの少しだけ、快適で、スリリングになった。
それだけで、まあ、いっか。
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今後は連載版の方で随時更新していきますので、よろしければフォローしていただけると嬉しいです。
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