出会えただけで。
@junjux
第1話 間違えた部屋
マンションの玄関チャイムが鳴ったのは、21時ちょうどだった。
食後にテレビをぼんやり眺めていた俺は、娘の「パパー!」という声で我に返る。
「だれか来たよー!」
「え?こんな時間に…誰だ?」
娘がピョンピョン跳ねながら玄関へ向かう。俺は慌ててその後を追った。
ドアを開けたのは、俺より先に娘だった。
そこに立っていたのは、淡いメイクに綺麗に整えられた髪、黒のワンピース姿の若い女性。
「…えっ?」
俺は声を詰まらせた。
彼女も一瞬だけ動揺したような目をして、すぐに微笑んだ。
「ごめんなさい。部屋、まちがえちゃったみたいです」
その瞬間、俺の脳内がフル回転した。
エレベーターの方向、時間帯、服装、香水の香り──そういうことか、と悟った。
娘が無邪気に言う。
「かわいい〜!お姉さんだれ?」
彼女は戸惑いながらも膝を折って、娘の目線に合わせた。
「ありがとう。お姉さん、ちょっとね…部屋間違っちゃってね」
「ふーん!じゃあどこに遊びにきたの?」
「うーん、ほんとは違うお部屋に行くはずだったんだけど…でも、会えてよかったよ!またね」
彼女の笑顔は、どこか張り詰めていた。でも娘は気にせず、その手を握った。
俺は言葉が出なかった。
娘が彼女の手を離さずにいる、その姿に何か説明しなきゃと思いながらも、何もできずにいた。
少しの沈黙。
彼女はそっと娘の手を離して、目を伏せた。
「それじゃ、ほんとにまちがえちゃったみたいだから…失礼しますね」
そう言って、彼女は静かに振り返った。
足音が遠ざかっていく。
娘は名残惜しそうに、玄関のほうを見つめていた。
「また来るかな?」
俺は娘の頭を撫でながら、言葉を探した。
でも、何も言えなかった。
──それが、すべての始まりだった。
部屋をまちがえただけのはずだった。なのに俺は、あの瞬間を何度も思い返すようになっていた。
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