界隈に沈む

月野 麗

界 隈

 「青春の一ページ」だとかいうよく聞く陳腐な言葉がある。

 なら人々は、全員「人生」という名の本をつづって生きているのだ。そして僕らは、ストーリーの重要な転換点となるページを破り取って売り捌いて、生きているといえる。

 そのページだけを人に見せて、誰がその本のすべてを理解できるだろうか。しかし、そのページのない本を読んで、誰がその話を「素晴らしい」と感じるだろうか。

 その本を書いた本人ですら、そうは思わないだろう。

──だって僕自身、クソのような人生だと思うのだから。


 これは僕らの、青かったはずの春の話。

 売り捌かれてゆく春の、腐り切った話。



 ──雨が降っていた。雨が降っていた。雨がしとしと降っていた。

 昼は薄い灰色の地面も、空の粒にうがたれ、黒くぽつりと沈んでいく。

 遠く見えるおぼろげな雲と、水たまりに反射する繁華街の灯りだけが、僕の目に映るすべてであった。


「ねぇお兄ちゃん、私、お腹空いた……」

「僕もだよ……もう何日米食ってねぇかなぁ……」

 そんな会話を、何回しただろう。


 僕の高校二年生の夏は、後悔で彩られている。



 肺に溜まった空気を、吐く。

 すぐまた空気を吸うと、濡れた土の匂いがする。


 僕の頬に貼りついた髪が、夜の風に少しだけ動いた。

 湿度のせいか、それとも三日洗えていないせいか。セミロングの髪は硬くなり始めていて、それが心をかき乱す。

 ……男らしいのからしくないのか、僕もわかったものじゃない、そう独りごちた。


 現在時刻は二十二時近い。

 といっても、僕は時計を持っていないので、橋の上を通る人々の様子を見て、予測するしかないのだが。

 先ほどまで酔っ払ったスーツの男たちが歩いていたのだが、また減っている。飲み会の一次と二次の境になるのが、二十一時ごろなのだ。


 店の客引きも少なくなり始めている、泥酔した客しかいない時間帯。

 ここからが僕らの時間だ。


「……よし! 行ってくるね、レイラ」

 『売り』に使う、彼女の偽名を呼ぶ。なけなしの体力を、腹から絞り出した。

 先ほどわずかな金で買ったチョコタルトの袋の封を開ける。

 ふわり、と甘い香りが鼻腔びくうをかすめる。意図せず腹が鳴った。

 だが、これはレイラの分。欲望に逆らい、きしむ心身に鞭打って立ち上がった。

 橋の下の重たい暗がりに、湿った音が響き渡る。


 雨はまだ、降り続けていた。


 黒くなりすぎた地面のつやが、やけに光って。

 それを思い切り乱すようにして、僕は小走りの足を運ぶ。

 繁華街を映す鏡が、その像を結ばなくなるまで。



 ──僕とレイラは、ずっと二人で過ごしていた。


 出会った当時、僕は中三、レイラは中一で、その頃から手足も何もかもが貧弱な子だった。

 その日は春にしては冷え込んでいた。

 風が僕の痛覚を殴りつける。遅れて舞う桜の花弁が甘く香った。

 そんな透明な闇によく映える、白く細い手足。まるで妖精が誘惑してくるかのようだともてはやされていた。


 界隈というのは、非行少年が、未成年がなどと騒がれることが多い。

 しかし実際は年齢層の二極化が激しく、「おじさん」や「先生」などと呼ばれる「買い手」もよくいる。

 会話をしてみたところ、彼女自身はそんなけがれを知らぬ純粋な少女で、ただ母親からの虐待に耐え切れず、「ご飯が欲しい」とやって来たそうだ。


 ……こんな子は、即刻買い手に喰われてしまう。

 「僕が守らなければ」すぐにそう思った。


 彼女の純粋さは眩しすぎた。


「エメお兄ーーちゃぁーーーーーん!!」

 僕は橋の下が定位置。

 それを知っているレイラは、横の歩道からの下り坂で加速して脇腹に突っ込んでくることが多かった。陽の光が当たる方から、当たらない陰へ。

「んぐふぅっ」

 小動物を思わせる身体でとてとてと走り、僕に突っ込んでくるレイラ。

 重力加速度的なsomethingの働きたるや素晴らしい。衝撃に僕の肋骨が悲鳴を上げる。

 しかし元々飯も食えないような家の子だ、軽すぎる体はすぐ燃料切れになる。

「疲れたー、抱っこ!」

 レイラが手を伸ばす。僕は笑って、その小さな身体を抱き上げる。

 ……あの時はまだ、彼女の身体は軽くても温かかった。

 天使のような、温かさがあった。



 さて、過去の回想にふけるのは、精神疾患の初期によく見られる行動なのだとか。

 やんだ雨に気づかないほどのめり込む状況に危機感を覚えつつ、T字路を右に曲がる。

 繁華街の入り組んだ裏通りに出ると、途端に錆びた塗装の建造物が顔を見せた。


 地に目を落とせば、泥酔した大人がゴロゴロと寝転んでいる。

 一応全員確認するが、服の乱れから察するに、財布や金目の物は取り尽くされた後のようだ。まぁ、当たり前と言えば当たり前だが。


 狭い道をさらに狭くするような階段と看板。

 月の明かりと申し訳程度に光る看板に照らされる、そこかしこに座り込み、はたまた立っている、僕と同年代くらいの人の影。


「遅かったな、エメ。お前は今日も『売り』するのか?」


 かけられた声に、僕は視線を少し落とす。座り込んでいる男が、そこにいた。

 彼は「売り手」だ。名前も知らないが、こいつの売り物は種類を問わず評判がいいらしい。

 ちなみに、僕がレイラと出会ったのは、癪なことにこいつのおかげだ。

 着ている物はボロボロで、黄土色と灰色の混じったその布からは、ヒゲしか見えない。コンクリートの上に広げているのは、大小色も問わないカラフルな薬のシート。

「……」

 一枚のシートを手に取り、裏返してみる。

 ……雨粒に濡れたシートのあちこちに、小さな穴が空いていた。そう、それこそ針で刺したような穴だ。

「お前もよく捕まらねぇよな……もう成人してなかったか? お前」

 呆れた僕は嘆息する。乾いた喉が、ピリリと痛んだ。

「なぁに、いけねぇ薬が入っていようが、お縄にならなきゃバレねぇからな! ま、最近は純粋なほうを吸ったり入れたりするやつが多いから、商売あがったりだが」

 僕が「売り物」のシートを投げてよこすと、からからと身体を揺らす男。


 暴論だな。

 閑話休題。


「で、今日はポリ公とかに会ったやつはいるか?」

 奥にいる、別の意味の「売り物」たちに聞いてみる。錆びた非常階段に座り込んでいた影が、一つ動いた。


「さっき、一番街の方に変なヤツがいた。あたし達には警官かどうかわかんなかったけど、ペアで何組か散らばってた。スリとは、目の動かし方が違うかな」


 リオという少女の大人びた声に、僕は思わずしかめ面を返す。

 補導警官に似た特徴だな。まだ僕は17だ、補導対象になり得る。

 転がっている石を思い切り蹴飛ばす。雫が、小さく足元で散った。

 かちゃん、と音を立てて、黒い小さなかたまりは光る看板に突っ込む。

 ふっ、と一瞬消えた看板の光が回復しないうちに、僕はその場を離れた。



 10分後。先ほどより若干ネオンの光る、ホテル街にて。

「ねぇ、そこのお兄さん。私を買ってくれないかしら?」

 僕は歩く酔っぱらい共に声をかけていた。


 これが僕の「仕事」だ。


 声をかける。目を合わせる。路地裏かホテルに誘う。

 たった、それだけ。時間にすれば、数十分。その行為の単純さは、僕に「生きるためだ」と簡単に正当化させるだけの力がある。



 もちろん、最初は手が震えた。知らない男の声、身体中をまさぐる手の冷たさ、乱雑に扱われる痛みに、何度も吐きそうになった。

 でも、帰ったときにレイラが笑ってくれる、それだけで良かった。

 「仕事」終わりにコンビニで塩むすびを買い温めてもらう、その全身が痛む時間ですら、レイラの小さな腹が膨れるなら、屁でも無かった。


 僕は彼女のために「仕事」をどんどん増やした。

 ……しかし、レイラの腹は、次第に僕の稼ぎでは膨れなくなってきた。


 全部、僕のせいだ。



 最近の僕にはどうやらガタが来ているらしい。

 こうやって過去を思い出していないと、この苦痛に耐えられないとは。もはや精神疾患の末期だろうか?

 そう悶々と悩む僕の体内で熱が弾けると同時に、客の体が崩れ落ちる。

 ホテルの一室、限られたオレンジ色の明かりは、僕の想いと反比例の温度感をうみだしていた。

「ありがとうございました。お代は頂いていきますね」

 こういう時に客と一緒にいると、他の客を呼ばれたり浮気問題に巻き込まれることがあるので、笑って僕は服を着る。


 まだ立ち上がれない客に、ではと声をかけて、僕は足早にホテルを出た。途端に冷え切った風が、僕を歓迎する。

 先ほどシャワーで洗った髪にも、それを包む大気にも、まだ湿り気が残っていて。手櫛を通すと、夜をさまよう濁った冷気が、僕から熱を盗んでいった。

 ──冷えた身体でレイラの元へは帰るべきでない。

 コンビニで温かいものでも買ってみんなへ配ってから帰ろうか、そう考え僕は足を踏み出した。

と。


「「あ」」


 ちょうど今から帰るらしいリオが、左から歩いてきていた。

 こういう瞬間によく思う。世界は狭いのだと。

「あー。一緒に、コンビニ行くか?」

 気まずさに頬をかきつつそう聞く。

 リオも僕と同じ心情なのか、ショートに揃った青髪をいじりながら、頷いた。

「んじゃ、こっち来いよ。頼むから、水たまりに突っ込まないでくれよ?」

 視線を宙に向け声をかけると、背後から控えめに声がする。

「あ……。やっぱ、まだ水だめなんだ。その、なんていうか……」

「リオ!良いんだ、その話は」

 どんどん小さくなっていく彼女の声を僕は遮る。

あれは、彼女にはどうしようもなかったことだ。彼女に非はない。

「だって、あの子にサンプルの『薬』を渡したのはあたしの雇い主だよ……?」

 震えたリオの声に、僕は思わず振り向いた。僕の冷え切った髪が、遅れて僕を叩く。

 彼女の青い瞳に映る夜は、涙で曲がっていた。

「僕が、早く帰っていれば良かったんだ、君のせいじゃない、僕のせいだ……!」

 僕は喉につかえた息を絞り出す。

 ──あの日、記憶に焼きついた、冷え切ったレイラの死体を思い出しながら。



 そう、あの日。

 普段よりも長めの仕事が入った僕は、帰るのが少し遅れてしまった。

 急ぎ足で橋まで帰る僕を、あの日も雨粒が叩いていて。穴が開き始めたグレーのスニーカーに染み込む冷たさが、僕を不安にさせていた。

「レイラ……レイラ!」

 僕が橋下の闇に呼びかけると、普段はレイラが出てくるのに。

 その日は、出てこなかった。

 いぶかしく思った僕は、闇の中に走り込んで。

「っっ! ぁぁ、嘘だ、嘘だぁあああっ!」

川に上半身を濡らす、彼女だったモノを見つけた。


 呼ばれたのは救急車ではなくパトカーで。

 薬物による急性中毒でそのまま倒れ、溺死したと思われると、後から知った。



「皆、死者も生者の心の中で生き続けるとか、言うけどさ……!」


 気がつけば僕は、リオに向かって濁りのすべてを吐き出していた。

 歩く僕に腕を引っ張られているリオは、若干早足で着いてくる。


 「慰め」が語られるたび、僕は息が詰まる。

 そんなものは嘘だ。ただの願望でしかない。死者の時計は、もう針の進むことがない。歯車はやがて錆びつき、朽ちていくだろう。

 なのに、僕の時計は進んでゆく。止まったままの彼女を置いて、歯車を、一秒一秒進めてゆく。

 ――止まってしまった彼女でも、僕は抱いていたいのに。


 歩道は途中で脇に逸れていた。

 逸れた横道へ進む僕の背中に、リオが問いかける。

「まさか、だから自分も死ぬとか、そういうつもり?! 許されると思ってるの、そんなこと!」

「違う!」

 間髪入れずに僕は声を出す。

 橋下の暗がりに立つと、いつの間にか雲の隙間から月が出ていた。月光の下に照らされる、小さな菊の花束と、僕が供えたチョコタルト。たかるアリを指でなぞり落としつつ、僕は後ろに言う。

「何度も後を追おうと思った……。でも、彼女への償いが、僕の死であって良いはずがない。あの優しい彼女が、僕が自殺して喜ぶと思うか?」

 雨は止んだはずなのに、雫が僕らの顔を濡らしていて。

 そっと僕らは、亡き人へ手を合わせた。



 青かったはずの僕らの春は、血と涙に濡れてしまって。

 レイラが夜闇に抱えた春は、道半ばにして腐り落ちた。


 まだ僕らは、腐った春にしがみついている。

 でも。彼女の時間を止めてしまった僕は、僕の時間を進めることで償いたい。


 「僕ら」が生きた春の闇を、いつか誰かに読んでもらうために。

 破ったページに、意味を見つけてもらうために。


 ページを破る人が、春を腐らせる人が、1人でも少なくなるように、願いを込めて。



 そのために、僕らは生きていく。

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