第六章 迎えられなかった命、それでも私は愛していた


私たちの間に命を授かったことがある。




【主人公の視点】


妊娠検査薬の陽性反応は、私の目の前で現実となった。


「えっ……うそでしょ……?」


言葉が喉の奥で詰まり、声にならなかった。

震える手で再確認するように検査薬を見つめても、現実は変わらなかった。


その時の私は、何もかもが混乱していた。


怖い。でも、嬉しい。

不安。でも、愛しい。

すべての感情がぐちゃぐちゃに混ざって、涙も出なかった。


そして彼に伝えた。


「……あのね、できちゃった、みたい」


沈黙が落ちた。

彼は何も言わず、ただ私の顔をじっと見つめていた。


その瞳の奥に、答えを探しているような迷いがあった。


「……まだ心の準備ができてない。でも、お前が産みたいなら、責任は取るよ」


責任――その言葉に、私はチクリと胸を刺された。

それは愛ではなく、義務のように感じてしまったから。


けれど彼の目は真剣で、私を見捨てようとはしていなかった。


その夜、私は一人になって、ずっと考えた。


まだ私たちは若すぎるかもしれない。

経済的にも、精神的にも、命を迎える準備が整っていなかったのは事実だ。


それでも私は、「産みたい」と思ってしまった。

この小さな命が、愛しくて仕方なかった。


病院でエコーを受けた時、私は初めて“命”の輪郭を見た。


小さな、小さな点。

まだ人の形すらないけれど、確かに“私たちの子ども”がそこにいた。


医師の言葉が静かに落ちる。


「心拍が確認できません。流産の可能性があります」


その一言で、世界の色が音もなく褪せていった。



【彼の視点】


「できちゃったかも」って言われたとき、正直、頭の中が真っ白だった。


どうすればいいか分からなかった。

でも、俺の責任だっていうのは、瞬時に理解した。


本当は――嬉しくもあったんだ。

でも、あまりに突然すぎて、現実味がなくて。

お金のこと、将来のこと、仕事のこと、

何一つ計画していなかったから、ただ戸惑うしかなかった。


それでも、彼女が「産みたい」と言ったら、俺は止めないつもりだった。


だって、それが“命”だってことはわかっていたから。


だけど数日後、流産の可能性を知らされたとき、俺は初めて泣きたくなった。


自分が何もしてやれなかったこと、

彼女がひとりでこの痛みと向き合っていること、

それを思うと、胸が押し潰されそうだった。


手術の前日、彼女は小さな声で言った。


「私、ちゃんと謝れるかな……この子に」


その背中は、まだ二十歳とは思えないほど大きくて、小さかった。



【主人公の視点】


手術当日。

最後の確認で再び映されたエコーには、かすかに“命の形”が映っていた。


「…いる…」


私はその瞬間、言葉を失った。

頭の中では「産めるかも」「救われるかも」と一瞬だけ思った。

でも、現実は違った。


この命はもう育たないと、医師は告げた。


手術台の上、私はひたすら謝った。

「ごめんね、ごめんね」と、心の中で何度も何度も。


私の身体から、命が奪われるその瞬間まで、

私は母親でありたかった。



【彼の視点】


病室から戻ってきた彼女は、まるで別人のように静かだった。


「……ただいま」

その声は、遠くから響くようで、掴みどころがなかった。


その姿には、手術を終えたばかりの身体の疲労だけでなく、

何か大切なものを胸の奥に埋めてきたような――そんな影があった。


俺はどう声をかけていいかわからなかった。


夜、ベッドの中で、彼女が小さく呟いた。


「もう会えないんだよね、あの子に……」


俺は言葉が出なかった。

ただ、抱きしめることしかできなかった。


「ごめんな」

その言葉が、正しかったのかは分からない。

でも、それしか出てこなかった。



【主人公の視点】


私はあるドラマを思い出していた。


40代の女性が妊娠を何度も経験するけれど、

毎回流産してしまう――そんな話。


それを思い出してネットで検索した。「不育症」


私も、もしかしてそうなのかもしれない。

だから、若いうちに産みたい。

体力があるうちに、命を守れるうちに。


35歳を過ぎれば、ダウン症の確率も上がると聞く。

「私たちの子だから育てる」と言えるほど、私は強くない。

それに、経済的に余裕がなければ、すべてが“綺麗事”にしかならない。


「お金がないから産めない」――こんな世界、おかしいよ


命を迎えたくても迎えられない人たちが、どれほどいるのか。

なのに「産まなかった」ことを責められたり、

「産んでも無責任だ」と言われたり。


私たちは、どこに立っていればよかったの?



【彼の視点】


俺は、彼女がどれほどのことを背負ってるのか、全部はわかっていなかった。


でも、ある日、彼女がぽつりとこう言った。


「もしまた赤ちゃんできて、私が死ぬってなったら、どうする?」


俺は正直に答えた。


「…その時は、俺は“お前”を選ぶ」


「そんなの酷いって思うだろうけど、

俺にとっては“命をつくる相手”より、“お前そのもの”の方が大事なんだ。

子どもはまた作れるかもしれない。でも、お前は代わりがいない」


彼女は黙っていた。


ただ、少しだけ微笑んだ。



【主人公の視点】


私は思う。

私は、彼も、命も、全部守りたかった。

でもそれは、欲張りなんだろうか。


あの日、私は命を選べなかった。

小さすぎて、抱けなかった命。

それでも、私は今もその命を愛している。

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