第五章:「ひとりの夜に、崩れていく音」

実家の玄関をくぐった瞬間、私はようやく呼吸ができた。

重いキャリーケースを引きずって入る足取りはどこか現実味がなくて、でも母の「おかえり」のひとことで、全身の力が抜けて、膝がふらついた。


そのまま玄関でしゃがみ込んで泣いた。

誰にも責められないことが、こんなにも救いだなんて、知らなかった。


妹が無言でタオルを差し出し、母は優しく背中を撫でてくれた。

「帰ってきてくれてよかったよ」――その言葉に、私はまた泣いた。



自室に戻ると、見慣れた天井と香りが迎えてくれた。

だけど、安心感と同時に、取り残されたような孤独がのしかかる。


スマホの通知が、何度も光っていた。

彼からのLINEと着信が並び、未読の数字だけが私の心を急かした。


「ごめん」「話がしたい」「信じてほしい」「戻ってきて」

その一つ一つが、胸に突き刺さる。


だけど私の中には、すでに答えの出ない問いが溢れていた。


「どうして言ってくれなかったの?」

「本当に“何もなかった”のなら、どうして隠したの?」

「私は…何だったの?」


夜が深くなるほどに、彼の声が恋しくなる。

でも、もうその声を“素直に聞きたい”と思えない自分がいた。



通話を許したのは、その夜だった。

一度だけでも、聞いてみたかった。彼の“ほんとう”を。


呼び出し音が3回鳴って、すぐに彼の声が届いた。


「…あかり…?ごめん、本当にごめん……」


その声だけで涙が出た。

だけど、泣きながらも言わなきゃいけないことがあった。


「私、まだ二十歳なんだよ…」

「十九の時に、あなたと出会って、付き合って――

もうすぐ一年だったのに」

「私は…私なりに、あなたに尽くしてきたつもりだったよ」


「…わかってるよ。わかってる…」


「あなたのために、服も髪も、体も変えた。

趣味だって全部手放したの。

あなたが笑ってくれるのが、ただ嬉しかったから」


「でも――あなたは、私のために何を変えてくれたの?」


その問いに、彼は何も答えなかった。

ただ、深いため息と後悔の匂いだけが通話越しに伝わってきた。


私は声を震わせながら、続けた。


「“元カノとは何もなかった”って、信じたかったよ。

でもさ――私が夜のバイトしてる間に、

あの人がうちに来てたって知ったとき、心が冷えたんだよ」


「その手で私を触れたの?

私たちの大切な空間に、他の人がいたってことが…

もう、気持ち悪くて、苦しくて、吐きそうだった」


「違う、何もなかった、ほんとに……」


「だったら、なんで言わなかったの?

“隠すことじゃない”って、あなたは思ってても、

私はそうじゃなかった。

言ってほしかった。それだけで、よかったのに」



通話を切る直前、私は彼に言った。


「私は、まだ二十歳なんだよ。

これが“初めての恋”だったの。

こんな形で壊れちゃうなんて、悔しくてたまらない」


沈黙の後、彼はかすかに呟いた。


「…ほんとに、愛してた」


でも、もうそれだけじゃ足りなかった。


私は画面を見つめて、そっと通話を切った。


暗い部屋に残ったのは、静かな“夜の音”。

誰もいないベッドの中、私はただ目を閉じた。



だけど――私は心の中で問い続けていた。


「私はどうすればよかったの?」

「どこで間違えたの?」

「私の何が、足りなかったの?」


涙は、もう枯れていた。

残っているのは、“後悔”と、“言葉にならない寂しさ”だけだった。

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