帰ろう
鴎博
第1話
山下新作は深く傷ついていた。
その言葉では足りないかもしれない。
彼の淀んだ目はゆっくりと宙を舞いながら地に伏していく雪の粉をただ呆然と見つめていた。
路肩に埋まる彼の姿を見た道行く人々の反応は様々だ。蔑むような目で唾を吐きつける者、憐れみを堪えきれずそっと食い物や小銭を置いていく者、中には手を合わせて口の中でもごもごと念仏を唱えるものまでいた。
ようやく彼が身体を起こしたのは雪が数センチ以上も積もり当たりが暗く陽を消した頃合だった。
「あぁ…寒い」
口から出た息が白く形作り、舞う。
のっそりと足を引きずりながら少しばかり離れた場所にみえる夜市の光を追って歩き始めた。
彼の同郷の唯一無二の友人、久田清彦は目の前で九九式短小銃を握った右手だけを残して吹き飛んだ。
余った破片を探す時間も気力も無かったのでどんな表情をして親友が死んだかを新作は知らない。
けれど、幾度も幾度も繰り返し夢に現れる清彦の顔は決まって片側が崩れ残った皮膚と筋肉で悲痛な様相を示していた。もちろん、それはただの新作の妄想であったが彼はそうとは捉えていなかった。清彦は、塹壕へ駆け込む際散らばっていた敵兵士の死骸を踏んずけて転んだ新作を庇って四散したのである。
今でもありありと目に浮かぶ、赤黒い粘ついた液体を全身に浴びながら目の前に落ちている軍服の切れ端がくっついた肉塊を呆然とただ見つめる己の姿が。全身を巡る血液が一瞬にして冷え切り、けれど思考は酷く冷静で、ふくらはぎの辺りから一斉にぶぁっと込み上げてくる震えを必死に噛み殺そうとする全身の筋肉。一日のうちにこれを思い出さなかった日はない。
そうして必ず付随するのは、2人が幼い頃親の手伝いを抜け出して近くの田園で遊んでいた記憶である。幼少期から体が大きくガタイの良かった清彦は、いつも同い歳のはずの新作を弟分として扱っていた。何をしても
「新作はこっちだ!」
「お前は本当にどんくさいなぁ」
と、実の兄のような上から目線の言葉をよく投げかけられていた。けれど、新作はそれを不快と思ったことは1度もない。
清彦は常に新作のことを考え、気にかけていることを肌で感じていたからだ。
こうして2人でいることは何よりも楽しかった。
けれど、清彦は死んだ。ヘマを犯した自分を庇って。
結局、新作は最後まで何も彼に返すことが出来なかった。
「おい!どこ見て歩いてんだ!」
いきなり聴こえた男の怒鳴り声に意識が引き戻される。
驚いて前を見ると割れた茶碗とこちらを睨む柄の悪そうな浅黒い男が目に入った。
どうやらぶつかって彼の晩飯を台無しにしてしまったらしい。
「あ、…すみま…」
「あん?何言ってんのか聴こえねぇよ!!」
謝罪の言葉を述べ終わる前に真正面から殴られた。勢い余って屋台の机に手をつくが、止まることは出来ずそのまま倒れ込んでしまった。
「チッ、骨のねぇやつだ」
そう言って腹に強めの蹴りを入れてから男は立ち去っていった。
やり返す気力も言い返す気力もどこにも落ちていなかった。
恐らく彼も戦争帰りだろう。自分と同じように心に傷を負い、それを持て余している。
なんとも切ないものだ。戦いは勝っても負けても後に残るのは壊れた人の心だけだ。
先程の男の爪先が刺さった場所があまりよくなかった。
空っぽの胃から甘酸っぱい液が込み上げてきて空嘔吐を繰り返す。
なんとか数十秒して顔を上げると、屋台の店主がじっとこちらを睨んでいる。申し訳ないと一言を置き土産にそそくさと屋台の光から逃れるようにその場を後にした。
ここら辺一体は空襲を受けて一面焼け野原の瓦礫の山だったらしく、終戦から1ヶ月たった今でも道(そう呼ぶにはあまりにも不格好な)の傍には堆く木片と瓦が積み上げられていた。
そっと小脇にそれて残骸の影で今夜は眠ろうと角を曲がると、鼻頭に衝撃を受けた。
「ったぁ…」
「痛ぇ…」
人とぶつかったらしい。
先程のような面倒事は勘弁と思い急いで謝罪の意を伝えるために相手を見た。
息を飲んだ。
相手は、まだ小さな子供を連れた女だった。
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