第7話 お客様の居眠り

午前1時を過ぎた頃、お客を乗せて本郷に向かっていると、覚王山辺りで玲香もお客を乗せて走っているのを見た。春樹はそのうしろについて走る。つまりは二人ともお客を乗せて東へ向かっているわけだ。玲香は何処までお客を送って行くのだろうか?


 しばらく、共に東に向かっていると、一社を過ぎたくらいで急に玲香の車がノロノロしだした。なかなか止まらない。春樹はそのまま玲香のタクシーを追い越して本郷までお客を送った。

一社から本郷までは2駅の区間だ。地下鉄東山線では一社→上社→本郷となっている。


 春樹は名東区役所の北側のマンションの前でお客を降ろすと、急いで一社に戻った。もしかするとまだ玲香が、いるかもしれない。

すると、やはり、一社東のENEOSガソリンスタンドの前で玲香のタクシーがまだ止まっている。


 玲香がタクシーの後ろのドアを開けて、お客になにかを話しかけているようだ。

春樹は車を玲香のタクシーの後ろにつけると、

「どうした?」って、玲香に聞いた。


「泉さん、助けてください!このお客、どうやっても起きないの !この交差点の南側に交番があったから、〃助かった〃と思って行ってみたけど、警察官は一人もいないし、名東警察署に行こうかと思ったけど、メーターを入れたまま走ったらまずいし、メーターを切ったら、現金しかもらえなくなるし、クレジットだったら大変な事になるでしょう。どうすればいいのか困っていたの」


「そうか、眠ちゃったのか!そういう時は、ちょっと待って!」

 春樹は小走りでエネオスの自動販売機で冷たいお茶を買ってくると、そのお茶をお客のほっぺにあてて、

「起きてください、お茶を飲んで目を覚ましてください、起きてください」

と、大きな声でお客を起こした。

 お客は寝ぼけまなこのまま、お茶を受け取ると、ここは、何処だ、って顔をしている。

「ここ、何処だかわかりますか??ヤナセの信号、木曽路の信号ですよ、

家はどこですか」

春樹が問いかける!お客はお茶を一口飲むと、やっと理解ができたようだ。


「タクシーか?そうだった!つい、寝てしまったか!悪かったな!参った。家はすぐ近くだ。あ`いいわ、歩いて帰るから、ここで降ろしてくれ」

料金をクレジットで払うとお客は降りて行った。お茶のお礼もない。


「泉さん、ありがとうございました。助かりました、どうしようって困っていたの。泉さんが来てくれて良かった!助かりました」


 玲香はほっとしたのか!こわばっていた顔が笑顔になった。


「こういうお客には、このやり方が一番だよ。ただね、お客が起きるまで、

『お客さん』って、呼んだらダメだからね!自分はお客だと思って甘えちゃうから、何しろ、冷たいお茶をお客の顔に当てて起きてくださいって言えば、なんだろう!って起きるから・・・・・・」


「さすが、プロ」

春樹はちょっと、玲香に茶化されたような気がして

「あのね、上野さんもプロなんだけど・・・・・」


「私、あの時、泉さんが私を追い越して行くのを見たの! だから、もしかしたら、助けに来てくれないかな~って思っていたら心が通じた!嬉しかった」

 玲香の声が弾んでいる。その時、春樹は思った。

 嬉しかったって・・・・玲香は、俺が来たから嬉しかったのか!

 あるいはお客を起こしてやった事が嬉しかったのか?

 それを春樹は聞きたかったが言い出せなかった。

「まだ、一時間ちょいあるから、頑張ろうな」

春樹は玲香に、そう、うながすと仕事に戻った。 


近くてごめんね  五月半ば


 毎年の事だが、お正月、ゴールデンウイーク、お盆はその前後も踏まえて夜の街は暇になる。特に特別連休が終わった後はお金を使い果たした後なので余計に暇になるのだ。


 いつものように午後5時に出勤すると、たて続きに近くてごめんね、の連発である。今もまた、近くてごめんね、と言って男の客が乗ってきた。

「本当に悪いんだけどさ・・・・・」と、言って、少し間が開く。春樹はこんなお客ばかりで少しいらだっていた。

「別に近いのはいいけど、何処へ着ければいいですか?」

 ちょっと投げやりな言い方である。まだ、自己紹介もしていない!自分でも、ちょっと、まずいと思った。

 会社では決して、いやな顔は表面に出すなと言われている。マニアルはしっかり言わなければならない。それも言っていない。

 すると、お客が言った。

「運転手さん、悪いけど八事まで頼むよ」

「八事ですか、ちっとも近くじゃないですよ!遠いですよ、ありがとうございます」

 春樹のテンションが上がる。八事であれば4000円は出る。


「いやね、実は私も昔、タクシー会社に勤めていた事があって、その時にお客に近くてごめん、近くてごめんって、うんざりするほど言われてね!あほらしくなってやめちゃったんだよ。だから、運転手さんの気持ちがわかるんだよな~それを確かめたくて、近くてごめん、を連発してみたんだ!悪かったね」


「そうだったんですか、本当に私もその言葉を聞くとイラっとします。

それで、さっきは投げやりになってしまって、どうもすみません」

 春樹が丁重に頭を下げる。

「そんな事はいいんだよ、本当にね、この近くてごめんが挨拶だと思っている人が多すぎるよね、昔からちっとも変わらん、ごめんと言うなら乗るなって思うよね」


「本当です、お客さん、もっとひどいのが、近くてごめんって言いながら抜け道を誘導してもっと近道をする、そうかと思ったら、近くてごめんって言っておきながら、ワンメーターの所で値段が上がる手前で止めろって言うお客、ふざけています。だったら、最初からごめん・・・なんて誤らなければいいのに・・・・」


「そうそう、私が辞めたのもね、さっきの運転手さんと同じで近くてごめん、近くてごめんの連発で、疲れちゃって、何処までだって?って、舌打ちをしたんだ。それが苦情になって、会社で始末書まで欠かされてね。安全手当7000円まで無くなちゃって、それで辞めたんだ」


「そうだったんですか、その気持ち、痛いほどよくわかります。お客が最初に運転手の気分を悪くさせておいて、運転手の態度が悪いって言うけど、自分たちが引き金を引いている事、気が付いてないんですよね。仕事はどんな仕事でも、気分良く仕事をしたいのに、みんな同じだと思うけど、運転手だって悪い人はいない。ただ、乗って来る早々、ごめんねって言われても、そんな挨拶、どこにもないですよね」


「そのとおり、普通に運転手がどちらへ行かれますか、と尋ねた時に

目的地を言えばよいだけの事。近くても、ごめんね、は要らん言葉だ。

それにタクシーに乗って来てもリードするのはお客でなく、運転手がリードする側のはずなのに乗って来るなり、いいから、まっすぐ行け、ナビ入れろと命令されても・・・・・困るよね!ラーメン屋に行って、店員がご注文は?って聞いているのに、お客は茹で湯に麺を入れろって、言っているような事だからな。運転手が、どちらに行かれますか 、の問いかけに答えてくれるのが一番いいのに、どのように行きましょう、おおよその目的地は言えますか、その問いかけに、しっかりと対応してくれれば、運転手もお客も気分のいい空間が保てると言うのに!レストランでもホテルでもボーイの応対に素直に応じているのに、なぜ!タクシーになると上目目線になるだろうな!」


「まさにお客さんのおしゃる通りです。なんだか、す~ごく嬉しいです。お客さんに出会えてよかった」


 春樹はすごく実感がわいてきて嬉しかった。そんな話で盛り上がっているうちに八事に着いた。客さんは頑張ってねと言って5000円を出し、端数のお金は置いて行った。

 春樹はしばらく降ろした場所から動けなかった。なんだか、急に玲香に電話をしたくなった。

「上野さん!今、大丈夫かな?」


「泉さん、は~い!大丈夫です」


「夜勤・・・・・慣れた?嫌なお客いない?」


「いいお客ばかりで、さっきも名駅から栄まで乗せたお客が近くてごめんね!って言って、料金1240円なのに2000円も置いて行きました。

夜の方がチップを沢山くれるので、夜勤になってよかったです。私、思ったんですけど、近いお客の方が、現金1000円出して、お釣り、いいからって降りて行く人が多いですね」


「それは、上野さんが可愛いからじゃないのかな」


「へぇー、泉さん、私ってかわいいですか??」


「あ、ゴメン、お客だ!切るよ!」

 春樹はごまかして電話を切ってしまった!チップ??

そんなもの、最近、もらった事が無い。大概がタブレットでの精算だ。

――そう言えば――今のお客に500円――チップをもらったばかりだ!

 春樹は――玲香に何を思って電話をしたのか?――自分でもよくわからなかった。

 お客には気分よく乗車してもらいたい、近い、遠いじゃない!チップが云々でもない、お客が安らげる空間を、春樹は提供したいと思っている。

 ただ、乗って来るなりいきなり、右行け、左行けと言われても・・・・・近くてごめんね!って、言われても・・・・・。

 〃目的地を明確に言ってくれれば、それだけでいいのに・・・・・〃

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