鉄の流れ者

増田朋美

鉄の流れ者

その日も暑い日で、なんだか疲れてしまうなあと思われる日であった。まあ梅雨が明けてすぐは暑いということが多いが、それでも、暑いのは居づらくて、大変な思いをするものであった。

その日、伊能蘭の下へ、一人の男性が相談にやってきた。なんでも、先月に結婚した妻のことであるという。

「すみません、結婚して早々と、相談があるなんて押しかけてきて。」

男性は申し訳なさそうに言った。

「良いんですよ。今の時代は、困ったことを溜め込んで置くほうが悪いのだって、科学的にも証明されているんですから、そういうことなら何でも相談してください。」

「ありがとうございます。そんなこと言ってくれるのは彫たつ先生だけですよ。だって、男のくせに何を言ってるんだとか、そういうことばっかり言われるんですもの。」

「いいえ良いんです。寺西さん。悩み事に性別は関係ないじゃありませんか。それに男性であれば黙ってなければならないなんて、そんな法律はどこにもありませんよ。」

蘭は、そう彼に言って慰めると、寺西さんこと、寺西康隆さんは、ありがとうございますと言って蘭に頭を下げた。

「良いんです良いんです。今の時代女性のための相談所は色々あるんですけど、男性は、なかなか相談する機会がないというのは、ある意味人種差別と言わざるを得ませんね。」

「ありがとうございます。実はですね、僕が、寺西成美さんと、結婚したというのは、先生もご存知だと思うんですけどね。」

寺西康隆さんは話を始めた。

「ええ知ってますよ。式はあげなくてもいいから、一緒に暮らそうって言われたので結婚したのですよね?」

蘭がそう言うと、

「はい。寺西さんは、ご両親が大規模な会社を経営されているので、それであまり日常生活には不自由していないせいか、自分の置かれた立場とか、そういうことにすごい敏感なようでして。」

と、康隆さんはいい始めた。康隆さんの旧姓は、今井康隆で、奥さんである寺西成美さんのご両親から、改姓してくれと頼まれてそうしたのである。

「そうですか。確か、パワーシャベルを製造する会社を経営されてましたね。パワーシャベルは、いつの時代も建設用具として使うものだから、ある程度需要はあるし、確かに、不自由しないっていうことはありますね。」

蘭は康隆さんの話に応じた。

「ええ、そうなんですよ。彼女の親御さんもまだ元気で、社長業をしていますので、僕はただの従業員の一人ですし、彼女は、社長の娘ということで、何でも他の人がしてしまうから。」

確かに、上流階級はそうなってしまうだろう。階級が上になっていけばなるほど、何でも人任せにしてしまうことができるので。

「それならば余計に大変ですね。それでは、あなたも居場所がなくて困ってるんじゃないですか。」

蘭がそう言うと、

「そうなんですよ。先生は流石ですね。僕もあの家で一人ぼっちなんです。だって僕は、ふつうのサラリーマン家庭の従業員であるだけなのに、いきなり社長の娘さんと結婚して、ましてやその家に入るんですから。それがどんなに辛いことなのか。先生、わかってくれて嬉しいです。」

と、寺西貴久さんは言った。

「そうですか。では、恋愛結婚ではなかったんですか?」

蘭がそう言うと、

「はい。社長からいきなり頼まれたんです。僕があの会社に入社して2年くらいたったときですかね。いきなり娘をもらってくれなんていい出して。なにかわけがあったのかと聞きたかったですけれど、その暇もなく、娘さんと入籍させられまして。」

寺西さんは、そういったのであった。

「わかりました。昔だったら、そういうことはよくあったんですけれどね。今ではありえないと思われても仕方ないですよね。でも、高級なお宅というのであれば、昔の結婚観があっても、仕方ないですよね。」

蘭は、そう寺西さんに言った。

「高級なお宅とか、偉い家のお宅といいますのは、意外に昔の時代の結婚観や家庭意識などを持っているお宅が多いようですよ。それは、そういうものだと思って受け入れていくしかないのではないでしょうか。昔の人は、それで当たり前だったと思いますから、同じ日本人である以上、おんなじことだと思って。」

「そうですね。」

寺西さんは言った。

「良かった。そういう事を言ってくれて、先生はやはり先生ですね。僕も、よくわからないのですよ。社長の命令ですから、従わなければ行けないと思うので、そうせざるを得なかったものですから。確かに社長のお嬢さんと、年齢が近いことは近かったので、一緒に食事したり、寄席を見に行ったりしたことはありましたが。」

「へえ、寄席を見に行かれたんですか?」

蘭は明るく寺西さんに聞いてみた。

「ええ。彼女はお笑いがすごく好きで、お笑いを見ているときには、自分の事を忘れられて、楽しくやれるんだって言ってました。それを言ってくれたから僕は、よく寄せに彼女を連れていきました。でも、今風の芸人さんを見ることはできなかったようで、有名な落語家の方の独演会くらいしかいけませんでしたけどね。」

「はあ、そうですか。有名な落語家ですか。そういう人が聞かせてくれるお笑いは、ただ大声で騒いだり変なパフォーマンスをするようなお笑いではなくて、ちゃんと日常生活の中にこしをおろしていますからね。そういうところが、きっと彼女は面白いのではないですかね?」

蘭がそう言うと、寺西さんは、大変つらそうな顔をして、

「ええ。最近はお笑いも見に行けなくなりましてね。前みたいに、二人で出かけようとか、そういうこともめっきり言わなくなってしまいました。こないだも、大好きな落語家の方が富士にくるというので、僕はどうかと誘いましたが、それも叶いませんでした。」

と言った。

「最近は顔も暗いですし、食事もなかなか食べないですし、もう力が抜けてしまったような、そんな感じになってしまいまして。多分きっと、成美はうつ病か何かになったのではないかと思いまして、彼女を病院につれていくことも考えたのですが、成美は、そんなことされたくないと言って怒り出すし、、、。」

「そうですか。それはまた大変ですね。それではずっと部屋に閉じこもったきりですか?」

蘭が聞くと、

「はい。そうなんです。なんだか何もする気がしないらしくて、料理も掃除も、何もしなくなりました。疲れてしまったというだけではないと思います。だけど、病院には行けないというか、行きたくないようで、僕はどうしたらいいのか困ってしまいまして。」

と、寺西さんは、文字通り、困った顔で言った。

「そうですか。それでは、何もする気にならないで、ずっとつらい気持ちが続いているということですね。それで、成美さんの主訴というか、よく言っていることはなんですか?」

そう聞かれて寺西さんは少し考えて、

「ええ。何でも居場所がないというのです。それはこっちの台詞だといいたいのですが、このうちには居場所がないとそればかり言っていて。なんでそういうことを言ってしまうのかな。僕もよくわからないのです。」

と蘭に言った。

「そうですね。心が病んでしまうと、認識とか、現実を感じるのにズレが出てしまいますからね。それは、仕方ないというか、そうなってしまうものですよ。そういうことは、もう奥さんはそうなってしまったんだと受け入れるしかないですよ。」

蘭は、寺西さんにそう言ってあげた。

「わかりました。先生。なんか先生に話を聞いてもらったら、ちょっとそれができるようになってきたようです。いろんな人に、そう言われましたけど、結局できなくて、困っていたんですけどね。でも、先生に言っていただいたら、なんか受け入れられそうだなと思いました。」

そういうことから考えると、誰が言ったのかというのも大事になるんだなと、蘭は思ったのだった。親に言われたことが癪に障って受け入れられなくても、別の人が同じ事を言ってくれたら受け入れられたという例は、よくあることなのである。

「じゃあ、僕はどうしたらいいのでしょう。まず第一に、彼女をなんとかして病院へ連れて行くべきなのでしょうか?」

「いや、それはどうでしょうか。病院へ行っても、薬はたしかに出してくれますが、解決方法には至らないと聞いたことがあります。それよりも、なにか別の事をする場所へ、彼女を連れ出したほうがいいのではないかな。例えばそうだな、精神障害がある人たちの、食事会へ参加するとか。」

寺西さんが言うと、蘭は言った。

「そういうものはどこで見つけたらいいのですかね。公式なサイトでは載ってないし、本なんか見たってしょうがないし、どうしたらいいのですか?」

確かに、寺西さんの言う通りでもあった。こういう精神関係の情報は、なかなか入手できない場合が多い。インターネットでもなかなか公開されていないことが多く、公民館や市役所などにもあまり掲示されていない。

「一番いいのは、医療機関へ行くことだと思いますが、それが難しいと言うようでしたら、こういうことはAIの質問サイトなどでは役に立たない場合が多いです。やはり、繊細な部分がある情報は、人に聞くことが一番ではありませんか?例えば、どなたか親戚でうつ病になった女性がいるとか?」

蘭は、仕方なく現実を言った。

「そうですか。しかし、僕の親族は皆元気で、そういう病気になった人間はいませんね。」

寺西さんが言うと、

「そういうことだったら、そうですね。奥さんは楽器の経験はお有りですか?」

蘭は、寺西さんにそう聞いてみた。

「確かに、子供の頃に、ピアノを習っていたということは聞きました。」

寺西さんが答えると、

「そうなんですね。だったら、もう一度ピアノ教室へ通わせるということは、可能ですか?」

蘭は、そう言ってみた。

「でも、何もしたくないと言っていますから、それは無理なのではないでしょうか?」

「いや、そんなことありません。僕は、いろんな人と話をしましたが、心が病んでしまっている人ほど、外へ出たいという思いを強く持っていることが多いんです。それを抑えようとしすぎるあまり鬱になってしまうという例が非常に多い。だから、夫として、奥さんを外へ出してあげることも必要だと思うんです。もし、よろしければ、僕の同級生がやっているピアノ教室を紹介しましょうか?練習用のピアノなんて中古でやすいのを買うことだってできるのでは?」

そういう寺西さんに、蘭は提案してあげた。

「そうですか、、、。そういうことなら、勇気出して、彼女に話をしてみます。そうですね。それでは、しっかり話してみることにします。彼女は、本当は居場所を求めているのかなあ。それがわかるんだったら、楽なことはないですが。」

「言ってあげたらどうですか?言えないで、黙っているのかもしれません。それを、言ってあげると、信頼度も増しますし。」

蘭は、寺西さんにそう言ってあげたのである。寺西さんは、ありがとうございましたと言って、蘭に頭を下げた。

「本当にありがとうございます、先生に相談してなんだかホッとしました。本当に誰に相談すればいいんだろうと悩んでおりましたが、先生に話せてよかったです。」

「いいえ、大丈夫ですよ。何でも話をしてください。そうしないとね、背中の不動尊が泣きますよ、寺西さん。」

蘭がそう言うと寺西さんは苦笑いした。確かに寺西さんの背中にある刺青は、蘭が入れたものだ。寺西さんは、なにか決めたらしく、大きなため息を付いて、わかりましたと言って、椅子から立ち上がって、蘭の家を出ていった。

それからしばらくして、下絵を描く仕事をしていた蘭のところに、電話がかかってきた。誰だろうと思ったら、

「もしもし、蘭?僕だよ、高野正志。」

と、声がする。

「ああ、一体どうしたの?」

蘭がそう言うと、

「実は、先週から、寺西成美さんという女性が家のピアノ教室に通ってくれているのだがね。」

と、マーシーこと高野正志さんが言った。

「ああ、それならご主人が、僕の家に相談に来てね。奥さんに居場所がないというので、ピアノ教室でもいかせたらどうだと言ったんだ。」

蘭がそう言うと、

「そうか。つまり彼女をよこしたのは、君だったのか。」

マーシーは、そう蘭に言った。蘭がどうかしたのかというと、

「実は困ってるんだよ。彼女の自信のなさというか、そういうことに!」

マーシーは、そう言っている。

「自信のなさ?」

蘭が思わず話すと、

「そうだよ。弾ける曲はいくつかあるのに、自分に自信がないせいで、レッスンがなかなか進まない。ご主人は、音楽のことはわからないって言うし、こっちにしてみれば、どうやって彼女にやる気を出してもらえるのか、困っているわけだ。やる気がないっていうか、自信がなさすぎて、いくら弾かせても、縮こまったままで、何もできないんだよ。」

マーシーは、嫌そうにそう言っているのである。

「仕方ないじゃないか。その女性は、ご主人の寺西康隆さんの話によると、かなり重度の鬱であるようだから、やる気がないように見えてしまうんだ。それはしょうがないと思ってよ。マーシー。」

蘭は、そうマーシーに言った。

「頼むよ。君は、音楽を通して、彼女に自信を持たせてやることができるじゃないか。僕は、そういうことはできないので、誰かに託すしかないんだよ。」

「もうしょうがないな。確かに、寺西成美さんはすごく厄介で扱いにくい生徒さんだと思うが、蘭がそういうのだったら、そうするしかないね。まあ蘭は、そうなってしまう性格だから、そうやって、人に渡していくのが役目なんだろうね。」

マーシーはそう蘭に言って、電話を切った。蘭は、マーシーから電話をもらって、自分は、何をしたのかなと思ってしまった。まさか、マーシーに、寺西成美さんを引き渡してしまったことで、成美さんが余計に自信をなくしてしまったら、それはまずいなと思ってしまう。だけど、蘭は、自分のしたことは、間違いではないと思った。

それからまた何日かたった。蘭はいつもと変わらず、お客さんの相手をして、腕とか、背中とか、そういうところに刺青を入れる仕事をこなしていた。刺青というと、どうしても、反社会的な勢力のイメージになってしまうが、それだけではないと蘭は思っている。ひどいことをされた傷跡や、自分がリストカットなどをしてしまったあとなどを刺青で消すことができる。それを蘭はすごいことだと思っている。それは、必要なことであるのに、なかなか認識されない。いわば、精神医学と、スピリチュアルが、いつまでも喧嘩しているのと同じだ。

そして蘭が、いつもと変わらず仕事をして、仕事場から部屋へ戻ってきたときのこと。蘭のスマートフォンがなった。

「はいはいもしもし。」

蘭が言うと、

「すみません。寺西です。彫たつ先生。あの、実は彼女、寺西成美が、一曲演奏してくれたので、録音して見ました。先生なら聞かせてもいいって成美も言ってました。それでは、音源を先生にお送りしますから、聞いていただいていいですか?」

と寺西さんはそういうのである。

「ああそうですか。わかりました。じゃあ、送ってみてください。どんな演奏を聞かせていただけるか楽しみです。」

蘭がそう言うと、寺西さんは、わかりましたと言って電話を切った。そして、蘭のスマートフォンに音声ファイル付きのメールが送られてくる。蘭がそれを開いてみると、

「シューベルト、ソナタ一番ホ長調です。」

と説明書きがあって、一緒に音声ファイルが掲載されていた。蘭がそれを開いてみると、ピアノの演奏が聞こえてきた。上手な演奏であった。きちんと、音のバランスもできているし、メロディもちゃんとなっている。ただ、有名なピアニストのような演奏ではないので、少し左手の伴奏が大きすぎるような感じがしてしまうのは否めない。

「素敵な演奏じゃないか。マーシーのやつ、やる気がないと言っていたが、本当にそうだったのかな?」

蘭はマーシーにそれを聞いてみようかと思ったが、それは敢えてしないことにした。きっとマーシーも、彼女をここまで導いていくことに、本当に苦労したのではないかと思われるからだ。

「きっと、大事なものは表に出ないんだ。でも、マーシーも、寺西さんも、きっと彼女をピアノが弾けるようにするために、一生懸命やったんだと思う。だから、大事なことは口にしないほうがいい。」

蘭は、そう呟いて、マーシーにも、寺西さんにも、何も聞かないことにした。きっとあの二人は、大変な事をしているんだと思ったので、蘭は、そのことについて、クチャクチャと追求しないほうが良いと思ったのだ。

蘭は、もう一度砂ートフォンを取って、改めてソナタ一番を聞いてみた。このシューベルトのソナタは未完成であるという。何故か第三楽章まであって、終楽章が完成していない。もちろん、寺西成美さんという人が弾いている演奏も、ところどころ間違いはあると思う。だけど、まず蘭は、彼女がそれをしたというところを評価してやるべきだと思ったので、曲が完成していなくてもいいと思った。蘭は、最後の第三楽章まで聞き終えると、寺西さんに当ててメールを打った。

「ありがとうございました。彼女、すごく上手ですね。それではいつまでも続けていってください。僕も、続けていくことが一番大事だなと思っていますので、それは、忘れないでいてください。」

蘭はとりあえずそうメールをうち、送信ボタンを押した。

そして、彼女をここまで演奏ができるようにしてくれたマーシーに向けて、こうメールを打った。

「マーシー、寺西成美さんに、ピアノを教えてくれてありがとう。すごく上手で、いい演奏を聞かせてもらったよ。」

そして送信ボタンを押す。

一方、寺西さんの方は、成美さんが、毎日辛くて悲しい気持ちが続いているということを訴えるので、嫌で嫌で仕方ないという顔をしていた。確かに、ピアノは習わせてあげているけれど、成美さんは、つらい気持ちが続いて、いつまでも泣いているばかりだったのである。困ってしまった寺西さんは、大きなため息を付いて、スマートフォンに向かったのであった。



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