第8話 思い出のバターキッシュ

 アパートの六畳間は、デスクとベッド、ちゃぶ台みたいな低い丸テーブルとソファ代わりになるビーズクッションを置くだけでいっぱいだ。


 ウォーキングクローゼットがついているので、服や化粧台はそちらにある。


「はぁーーーー」


 長いため息をついて、私はクッションにひっくり返った。

 両手でつまんでいるのは、営業部のイケメン、広田彰人のアドレス名刺だ。


 最近は、こういった使い捨てカードを渡してコミュニティの輪を広げるのが主流。

 スマホを近づけると自動的にチャットアプリが立ち上がって、彼とお友達になるページが表示されるのだが、いざとなると登録する勇気が出ない。


 このボタンを押したら広田と繋がってしまうと思うと緊張して、もう五回も画面を消したり出したりしていた。


「瑠香、ため息をついていると幸せが逃げるにゃ」


 キッチンの方からクロ(人型)が顔を出した。


 今日の彼は白いTシャツに灰色のスウェットズボン、そこにピンク色のエプロンを巻いている。

 さすがに全裸でいられると困るので、量販店でパンツから靴下まで一そろい買って渡したのだ。


 高身長で痩せているクロは何でも似合うらしく、おたまを握った姿も雑誌撮影の一コマのようだ。

 実際は、私の夕ご飯を作ってくれているだけなんだけど。


 壁に空けたスマホ穴の分、彼には家事という名の無償奉仕をしてもらうことになっている。


「そんなに悩まれてはワシ特製のご飯がまずくなるにゃ。悩むのは食べてからにするがよいにゃあ。ほらほら、テーブルを拭いてお箸を出すにゃ!」

「はーい」


 私はかたく水気をしぼった台拭きでテーブルを綺麗にし、キッチンの脇にある三段ボックスから箸やスプーンを入れたカトラリーケースを出した。


 あとは食器。

 ワンプレートご飯に憧れて買った大きめの丸皿を二つ用意する。


 食欲を刺激するガーリックの匂いにつられてコンロを見ると、赤いスープが煮立っていたので深めのお皿も。

 すすいでいたら、チンとオーブンが鳴った。

 久しぶりに聞いたかも、この音。


「出来たにゃあ!」


 花柄のミトンをはめて天板を取り出したクロは、アルミの焼き型ごと料理をテーブルに運んできた。


 こんがり焼き上がっていたのはキッシュだった。

 ほうれん草とベーコン、コーンが玉子色の生地から顔を出して、ほかほか上がる湯気にはバターが香る。


「おいしそう……。これ、本当にクロが作ったの?」

「ワシは使い魔にゃ。このくらい出来なくてどうするにゃあ? パイ生地を作るほど小麦粉がなかったから、買い置きの食パンで代用したにゃ」


 器用にキッシュを切り分けたクロは、次にスープ鍋を運んできた。


 赤いのはトマトの色だ。

 お玉ですくうと、くし切りにした玉ねぎと鶏の手羽元が現れる。

 スープ皿にこんもり持って、乾燥パセリをパラパラと振りかける。


「さあ、めしあがれにゃ」

「いただきます」


 まずはキッシュにかぶりつく。

 下に敷いた食パンがサクッといい音を立てて、玉子と野菜の素朴な味わいが口いっぱいに広がる。


 トマト煮は箸で持っただけでチキンがほぐれるほど柔らかい。

 皿のなかで崩してスープと一緒に頬張れば、ガーリックと塩できりりと引き締まったトマトの酸味が、疲れでしなびていた食欲を呼び起こした。


「おいしい……。これ、おばあちゃんの料理と一緒だ」


 祖母のルナは、夏休みを迎えて私が訪ねていくと、初日に必ずこの二品を作ってくれた。


 手製のパイ生地に、畑でとれた季節の野菜をのせ、甘めに味付けした卵液を流して焼いたキッシュ。

 それと、チキンがほろほろとほぐれるまで煮込んだ濃厚なトマトスープを、お鍋いっぱいに作ってくれた。


 祖母の家の玄関の戸を開けると、夏の風にのってコトコト煮込むスープの香りが漂ってきたのをよく覚えている。


 なつかしさに胸を震わせる私を、向いに座ったクロが楽しそうに見ている。


「ルナの作業を見ているうちに覚えたにゃ」

「見てできるなんて天才だね。クロは食べないの?」

「冷ましてから食べる…にゃう」


 湯気の上がる自分の皿をじっと見つめて、クロは唇をとがらせた。

 姿は人になっても、猫舌は変わらないらしい。


 もしも今、彼が猫の姿だったら三角の耳をしゅんと寝かせていることだろう。


「……クロは、おばあちゃんが死んじゃってからどうしてたの?」


 十年前のお葬式の時も一人暮らしだった家を掃除した時も、クロの姿はなかった。

 祖母と一緒に暮らしていたことはわかったが、私と出会う前はどこにいたんだろう。


「ワシは世界中を旅しておったにゃあ。魔女の本場は大陸の方にゃ。星を詠み、風を聴き、古書に触れ、使い魔としての研鑽けんさんをつんで日本に帰ってきたら、次に仕えるべきお前がしょぼくれていたというわけにゃ」


「別に、しょぼくれてなかったけど」

「嘘をつけにゃ。今だって大したことでもないのに悩みおってにゃあ」


 すくったスープをふうふう吹いて冷ますクロの背後に、黒いしっぽが現れた。

 しっぽの先で器用に私のスマホを持ち上げていて、床に落ちていた彰人のカードにぴっとかざす。


「……なんじゃ、男かにゃあ。顔はイケてるようだにゃ」

「ちょっとやめてよ。会社の営業部の人なの! 相談事があると思って、アドレスを渡してくれて」

「そういうことなら、ちょちょいのちょいにゃ☆」


 クロがお友達ボタンをポンと押す。

 あっという間に彰人とのトーク画面が開いてしまった。


「わーっ!」と悲鳴を上げてスマホを取り返すと、通知に気づいたらしい彰人からスタンプが届く。


 ありがと。

 彼が使っているのは『きょうりゅうバンビーノ』スタンプだった。


「え、えっと、私も返さないと」


 こちらこそ。

 私が『ハピネステディ』のスタンプで返せば、今度はメッセージが届く。


『部長のパワハラに気づけなくてごめん。俺でよかったら話きくよ。なんでも言って』


「ど、どうしようクロ。話の流れで、起きてもないパワハラを相談することになってるんだけど……」


 部長のお叱りがきついのは事実だけど、あれは私のやらかしが発端だ。

 自身の失敗を相談したら呆れられそうだし、かといって部長を悪者に仕立て上げるのはよくない。


 向こうのメッセージには既読をつけてしまった。

 早く返信しないと変に思われる!


 クロはやっとスープを飲んだが、まだ熱かったらしく舌を出したまま話す。


「むみゅみゅみゅ」

「何言ってるかわからんないよ」


「魔女は男をたぶらかすのが上手くなければならないにゃ。いい機会にゃ。その男を練習台にしてやろうにゃあ」


 クロが手を丸めて二回動かすと、送信時のシュッという音が手元から響いた。


「えっ」


 見れば、私側から彰人にメッセージが送られていた。


『嬉しいです。人前では話しにくいので、静かなところでお会いできませんか?』


「なっ。なんてことしてくれたの、クロっ!」


 これではデートに誘っているみたいではないか。

 向こうもそんなつもりはなかった、と拍子抜けしているに違いない。


「絶対に拒否されるよ!」

「そんなことはないにゃ」


 言い争っている間に、彰人から返信が来た。


『わかった。今度コラボ先のテーマパークに視察に行くんだけど同行してくれる? 女性の意見も聞きたくてさ』


「う、受け入れてもらえた?」


 ぽかんとする私の前で、クロはニヤニヤと笑う。


「極東の魔女の孫娘らしく、イチコロにしてくるのにゃぞ。瑠香」

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