社会になじめないと思ったら魔女だったようです

来栖千依

第1話 ポンコツ会社員の朝

「もう死んでやるーっ!」


 花ざかりの桜の枝の下で、疲れた顔の母親が子どもを前後に乗せた自転車から飛びおりた。

 そのまま、遮断機の下りた踏切に突っ込んでいく。


 眠たい顔で電車が通りすぎるのを待っていた人々は騒然とした。

 方々から手が伸びて止めようとするけれど、彼女は火事場の馬鹿力で振りはらって黄色と黒に塗り分けられた棒をくぐり抜けてしまった。


 ファン!

 大きな音に顔を向ければ、快速列車がすぐそこまで迫っていた。


 カンカンカンと古式ゆかしく鳴る警告音。

 びっくりして泣き出した子どもたちの声。

 それらに意識を取られながらも私は叫んでいた。


「よけて!」


 よろめくように線路へ飛び込もうとした主婦の体が、ふわっと浮いた。



「――それで、線路に飛び込んだ主婦は助かったと。真城ましろ君、そんな作り話はいいかげんやめなさい。いくら評定に響くからって、遅刻をごまかすのは社会人らしくない」


 君、もう二十九歳でしょう?


 呆れた口調で叱ってくる上司の明らかに人工的な生え際を見つめながら、私はこぶしを握った。


「その事件がなかったら本当に遅刻しなかったんです。今朝は目覚まし時計が勝手に止まってもいなかったし、自動改札でエラーも起きなかったし、電車に乗ったとたんに勧誘に捕まることもなかったし!」


「いつもの遅刻理由を並べたって、今回のが不問にはならないんだよ。さっさと席について仕事をしてくれたまえ」

「……わかりました」


 しょんぼりと肩を落として、部屋の隅にある自分の席に向かう。


 同じ部署のうわさ好きな女性社員三人(私はスピーカー三銃士と呼んでいる)が、陰口にしては大きな音量で話し出した。


「真城さん、また作り話で鶴下つるした部長を丸め込もうとしたんだ。虚言癖きょげんへきって言うらしいよ。息をするように嘘をついちゃう人」


「前は、十個も目覚ましをかけたのにいっぺんに故障したとか、金額は不足してないのに自動改札がエラーを吐いて停止したって、まあわからないでもない理由だったけど、さすがに人助けしてて遅れたは作り話としてないわ」


「相手が浮いて助かったとか誰が信じるのって感じだけど、真城さんの周りって変なことがよく起きるよね。トラブル体質なのかも」


 彼女たちの机や椅子は、ピンクや水色、赤や白を多用したファンシーなキャラクターで彩られている。

 ぬいぐるみが置かれたり、キャラクターのカバーがかけられたり、パソコン自体をシールでデコったり。


 あれらは私が勤める会社の製品である。


 私――真城瑠香ましろるかが働いているここは、キャラクターグッズの制作会社プリュミエールだ。

 デザインも自社で行っており、年商は一千億を超える。


 好調なのが、1974年に誕生したクマのキャラクター『ハピネステディ』。首にボンボンをつけた愛らしい姿が世界中で愛されている。


 次点で、一昨年に発表された『きょうりゅうバンビーノ』。


 ほんわかタッチで描かれたティラノサウルスやトリケラトプス、プテラノドンが、ベビー期を過ぎても男児に可愛いものを身につけさせたい母親層、可愛いものが好きな子どもに刺さった。

 現在、我が社が一番力を入れているのもこのシリーズだ。


 私は、ハピネステディのクッションを置いた自分の椅子にどかっと腰を下ろし、デスクに置いた鏡をのぞく。


 キューピー人形みたいにぽっちゃりした頬が特徴の顔は、少しやつれていた。


 顔つきが地味で化粧映えしないので、仕事の時はいつも色付きの日焼け止めとカラーリップで済ませている。髪もゴムで結んだだけ。


 身長も体重も平均的。挨拶されたらし返す程度の社交性しかない。

 どこにでもいそうな平凡な会社員。それが私。


 唯一、誇れることは子どもの頃から憧れだったプリュミエールに入社できたこと。

 それでも順風満帆とはいかないのが私の人生で。


(おかしいな。たしかに浮いたのを見たんだけど……)


 今朝は本当に順調だったのだ。


 定時に起きた私は、昨晩のうちに選んでおいた綺麗めのブラウスと感じがいい丈のスカートをはいた。

 早めに一人暮らしのワンルームを出て、自動改札に止められることもなく電車を乗り継ぎ、オフィスの最寄り駅である品川に着いた。


 時間は余裕。遅刻するはずがない!


 スーツの人々に混じってウキウキで道を歩いていくと、踏切の遮断機が下りた。


 うううっ。

 うめき声のようなものが聞こえて振り向けば、真横に自転車が停まっていた。


 声の主はその運転手だった。

 前後に小さな子どもを座らせたジャージ姿の母親が、ハンドルを握って涙を流していた。


『どうして私だけこんな目にあうの……』


 踏切で足止めをくらうのがそんなに嫌なのか。

 そう思っている間に、彼女は自転車から飛び降りた。


 とっさに倒れかけた自転車を押さえる。

 子どもたちは転倒せずに済んだけれど、ずっしりと感じる重みに走るだけでも大変だろうと思った。


『もう死んでやるーっ!』


 母親はやけになっている。

 止めようと方々から伸ばされる手を振り払い、遮断機をくぐり抜けた彼女は、今まさに向かってくる電車の前に飛び出た。


 私は思わず、ありったけの大きな声で叫んでいた。


『よけて!』


 ふわっ。


 母親の体が宙に浮かんで――まるで、ビリヤードの白い玉が弾かれたようにポーンと遮断機の近くまで飛んできた。

 すれすれで彼女を轢かなかった電車は、急ブレーキをかけて二十メートルほど先で止まった。


 何が起きたのか、本人も、周囲も、そして私もわからなかった。


 びっくりした顔で立ち上がった母親は幸いにも怪我はなく、憑き物でも落ちたように自転車に駆け寄ってきて、子どもたちを抱きしめてワンワン泣いた。


 そして、泣きながら育児ノイローゼだと話してくれた。


 夫が家事や育児に非協力的で、二人の年子を抱えて働く人生が辛くて辛くて、そんな時に踏切にも足止めされて、感情が振り切れてしまったのだとか。


 このご時世に結婚できて子どももいる人は、無条件で幸せなんだと思っていたけれど……悩みも苦しみも人それぞれだ。


(それにしても、今日のは格段と不思議な体験だったなあ)


 自分で言うのもなんだけど、私はトラブル体質だ。

 学生時代も社会人になってからも、幾度となく不可解な事情で遅刻してきた。


 だから、上司が信じてくれないのも仕方ない。


 パソコンを立ち上げて来ていたメールを確認する。

 私は流通管理の部門にいて、各地のショップの在庫を調整するのが主な業務だ。


 今日はめずらしく五十件も連絡が来てる……。


 嫌な予感を覚えながら一番の上のメールを開いた私は、怒りと焦りが半々の文面を見て青くなった。


「店に卸す数、間違えた!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る