外持雨

@yujiyok

第1話

休日に晴れたのは久しぶりだった。

休みといっても家にいる時間の方が長いのでたいして変わらないのだが、気分が違う。

窓を大きく開けて空気の入れ替えもできるし、洗濯物だってよく乾く。

軽い掃除も午前中に済ませ、ちょうどお昼頃お腹がすいた。

久しぶりに外でランチでもしよう。

テレビを何となく眺めながら、お店の候補を考えた。

コンビニとスーパーは近くにあるけど、ランチに丁度良いところは少ない。

でもせっかくだから外には出たいし、たまには少しだけ遠出しよう。と思い、電車で20分程のターミナル駅で探すことにした。

さっと支度をして家を出る。牛丼とかカレーとかでもないしなぁとチェーン店を通り過ぎて駅に向かう。


電車に乗りながら自分の舌に聞く。何を食べたいと感じているの?

ラーメンでもとんかつでも何とか定食でもないな。パスタかサンドイッチ。んー、かするけどヒットではない。おしゃれ女子が好みそうな何かかなぁ。

とはいえ、それは何だ。食事パンケーキ的な何か?サラダもりもりめのキッシュとか、野菜をトマトで煮込んだやつとかが乗ったワンプレート的な何か?悪くない。そもそも私はおしゃれ女子でもないけど。

目的の駅に到着。とりあえず駅ビルのレストラン案内を見る。

ハンバーグ、タイ料理、中華、イタリアン、牛タン。どれも響かない。

街に出て歩いてみる。数えきれないほどたくさんの飲食店があるのに、どの看板も私には届かない。

お好み焼き、お寿司、ステーキ、そば。こんなにも選択肢があって、とてもお腹がすいているのに、なんだろうこの上手くフィットしない感。

もう何でもいいから適当な店に入って何か食べよう。

なんとなく気分に近いからその辺のカフェでサンドイッチ的な何かでいいや。

私は空腹に負け、目についたカフェに入ることにした。

せめて有名チェーン店ではないとこにしようと決め、さらに5分ほど歩いて見つけたお店に入った。

初めて見る名前。こんな所にお店があることすら知らなかった。割と歩く所なのに。

お店は混んでいた。この期に及んで席がないとか勘弁して欲しい。

満席なら空くまで待つのみ。

「おひとり様でよろしいですか?」

「はい」

「只今席が混み合っておりまして…、少々お待ち頂いてもよろしいでしょうか」

「あ、はい…」レジ前にあった椅子に座ると、一度去った店員が戻ってきた。

「相席でよろしければすぐご案内できるんですけど…」

「あ、はい、大丈夫です」

変な人でなければ、だけど。

「かしこまりました、ご案内いたします」店員の後ろについて奥へ進む。

大きめな席に男がひとり座っていた。

「こちらへどうぞ」

向かいの椅子に座るが、テーブルが大きいため圧迫感はない。

「すみません」一応頭を下げる。

「あ、いえ」男も頭を下げる。

若めのサラリーマンだろうか、小綺麗な格好だがスーツではないので普通に休日なのだろう。

「こちらメニューでございます」店員がお水とメニューを置いていった。

さて、何があるのだ。

飲み物のページを飛ばし、フードを探す。

ホットサンドイッチセット、ベーグルサンドセット、ガレットセット、フレンチトーストセット。

なんか、ちょっとおしゃれっぽい。うん、どれも良いな。

「お待たせいたしました」

店員が前の男に料理を持ってきた。

大きなお皿にサラダと小さなおにぎりが2つ、ちょっとしたお惣菜がいくつか器にのっている。玉子焼きやらスライスされたレンコンやら、小さいハンバーグっぽいものやポテトサラダらしきものなどで埋め尽くされている。

「なにそれ、美味しそう」

思わず口に出してしまった。

店員がスープを置いてこっちを見て、男もまっすぐこっちを見る。

私は恥ずかしくなった。

「日替わりプレートです」店員と男が同時に言った。

2人は顔を見合わせ笑い出した。私もつられて笑った。

「あの、私も同じものでお願いします」

「かしこまりました。ドリンクはいかがいたしますか?」

「あ、えっと…」

「こちらからお選び頂けます」店員はメニューを指した。

「じゃ、コーヒーで」

「食後でよろしいですか?」

「はい」

「かしこまりました」

店員はメニューを下げ去って行った。

「なんか、すみません」私は男に頭を下げた。

「あ、いえ」

なんとなく居心地悪そうに、でもさっきの笑いで少し打ち解けた感もありつつ頭を下げた。

「これはコンソメスープです」

男は、私が料理をじっと見ているのに気付いて言った。

「あ、はぁ…」また恥ずかしくなり、私はうつむいた。

「こちらはよくいらっしゃるんですか?」

なんとなく気まずくなって話しかけた。

「今日で3回目ですね。とても美味しかったので」

「そうなんですね、私は初めてです。この辺よく歩くんですけど、こんなお店あるの知らなくて」

「あ、僕も最初に来た時、全然気付かなかったのに驚きました」

男は手にした箸を置いて答えた。

「あ、すみません、お食事の邪魔ですよね、どうぞ」

私は携帯を出してネットニュースを見始めた。

男は少し笑うと静かに食べ始めた。

やがて私の料理も届き、食べることに集中した。

半分ほど食べたところで、前の男に食後のコーヒーが来た。

砂糖とミルクは使わないんだなーと何気なく視界に捉えていた。

ふと見ると男と目が合った。さっとそらしたが、逆に怪しいかなと思いもう一度見ると、男が微笑んできた。

恥ずかしい。私、挙動不審かなぁ。

「近くにお住まいなんですか?」

男が気を遣ったのか聞いてきた。

「え?」

「あ、この辺よく歩くって言ってたので」

「あぁ、遠くはないですけど、そんなに近いってわけでも…電車で20分くらいの所です」

「へぇ、僕も電車で20分くらいですよ」

「あ、そうなんですか。今日はお休みで」

「えぇ、なんか久しぶりに晴れたんで、外でごはんでもって思って。前に来たここを思い出して、出てきたんです」

「へぇ…」

何だか私と似た感じだなぁ。ここにもまた来ちゃいそうだし。

「あ、すみません。お食事の邪魔ですよね」

男は伝票を手にした。

「いえ…」

「今日は話し相手ができて良かったです。ありがとうございました」

「あ、いえ、こちらこそ」

男は立ち上がると、軽く頭を下げてレジへ向かった。

食事を終えるとコーヒーが来た。

感じの良い人だったなぁ。なんとなくさっきまで男がいた所を見つめた。


ぶらぶらと周辺を歩いて、特に何も買わず家に帰った。

コーヒーメーカーでコーヒーをいれながら、先ほど会った男の顔を思い浮かべようとしたが、なんだかぼんやりして、ちゃんとは思い出せなかった。

名前も知らないし、たまたま会っただけだからなぁ。もう二度と会うことはないのだろうと思った。


穏やかだった休日も終わり、また仕事の日々だ。入社当時の情熱なんてとっくに消え失せ、惰性だけで仕事をこなしているようなものだ。ただただ給料のためだけに。

たまに同僚と飲み会はするが、プライベートで頻繁に遊ぶわけではないし、ほぼ家と職場の往来で毎日が過ぎる。

そうして休日がやってくる。

今日は雨は降っていなかったが、どんよりとした曇り空で薄暗い。

休日といってもいつも特にやることはなく、音楽をかけて本を読んだり、お菓子を食べながらテレビで映画を観るくらいだ。特別な趣味などもない。

なんとなくテレビをつけザッピングしていると、ふと先週の事を思い出した。

そういえばランチで相席したなぁ。今の今まで思い出すこともなかったが、またあのカフェに行きたくなった。

料理が美味しかったので、他のメニューも気になっていたのだ。

テレビを消し、外出の準備をした。


たしかこの辺だったよなぁと歩いてみたが、見当をつけた所にはコンビニがあった。

あれ?ここじゃない。1本隣の通りだったか。さらに5分程歩いて探すとあのカフェを見つけた。

ここだったか。横の建物を確認し、今度こそ場所を覚える。ぼんやりとしたよくあるビル。健康食品か何かを売ってそうな、ガラス張りだが中が見えない、店だか事務所だかわからない所。覚えづらい。

カフェに入ると相変わらず混んでいた。

「いらっしゃいませー」

「あ、1人ですが…」

「ただいまお席ご用意いたします」

店員が奥のテーブルを片付けに行った。丁度席が空いたのだろう。

タイミングが良かった。

「お待たせいたしました。ご案内いたします」

あとをついて行くと前回と同じ大きめのテーブルだった。

「本日の日替わりプレートはこちらでございます」

店員がメニューの一番後ろにはさんである紙を指した。

いくつかのお惣菜の名前が並び、メインはローストポークでスープはミネストローネ。

結局これか。他のメニューとか思ったけどやっぱり美味しそうだし。

日替わりを頼んだ。

携帯をいじって待っていると店員がやってきた。

「お客様、大変申し訳ございません、ただいま店内混み合っておりまして、相席をお願いしてもよろしいでしょうか」

「あ、はい。大丈夫です」

前回私もそうだったので、断るわけにはいかない。

「ありがとうございます」

店員が1人の男を連れてきた。

「こちらのお席へどうぞ」

「あ」

男は、私の顔を見ると驚いた声を出した。

「あ」

私も彼を見て言った。先週と同じ人だった。

「どうも」

「どうも」

「すみません」そう言いながら男は椅子に座った。

「いえ」

「偶然ですね」

「ほんと。また同じ席ですね」

そうだ。こんな顔だった。

店員が私の料理を運んできた。

「あ、僕もこれと同じものを」

「かしこまりました。日替わりプレートですね」

「はい」

「スープはミネストローネです」

私は届いたカップを持って言った。

「あ、いいですね」

「なんか、また来ちゃいました。美味しかったので」

「ですよね。今日はローストポークですか」

「はい」

「あ、どうぞ、お召し上がりください」

「あ、はい」

なんとなく私は、彼の料理が来るまでゆっくりと食べることにした。

これも何かの縁だ。一緒に食べよう。

やがて彼の料理が届き、食べ始めた。

少しだけお互いに気を許した感じになり、会話がはずんだ。

彼の利用する駅は私と同じだった。

「え?家、どの辺ですか?」私が聞くと

「あ、あの、ドラッグストアの近くの公園あるじゃないですか」

「はい、分かります」

「そのすぐ隣のマンションです」

「へぇ、私と逆方向ですが近いです」

「あの辺、あんまり食べるとこないですよね」

「そうそう、牛丼かカレーくらいしか」

お互い同じタイミングで食べ終えるまで話は続いた。

食後のコーヒーが一緒に運ばれてきた。

「二人一緒に来たみたいですね」

彼が1セットだけ来た砂糖とミルクを私の方に寄せた。

「はは、そうですね。あ、そういえばお名前聞いてなかった」

私はコーヒーを手に彼に言った。

よくある平凡な名前、と言っては失礼だが顔と一緒であまり特徴のない感じだ。

私も人のことは言えないが名乗り、楽しいランチは終わった。

「このあとは」私が聞くと

「あ、ちょっと買い物をしてから帰ろうかなと」

「そうですか」

「ではすみません、お話できて良かったです」

「こちらこそ」

彼はひとり席を立ち、お会計に向かった。

こんな偶然もあるもんだなぁと思った。

しかも割とご近所さんだったなんて。

私は少し時間をおいてから席を立った。


家に帰り、途中で買ってきたプリンを食べながらあの男の顔を思い浮かべようとすると、やっぱりぼんやりとしたままだった。

でも名前は覚えている。また会うことはあるのだろうか。あのお店に行ったら会えるかもしれない。

別に好きになったわけではないが、何となく友達みたいな感じにはなっている。

ランチ友か。つまらないテレビを見ながら思った。


惰性の平日をこなし、次の休日、私は迷った。あのカフェに行くか行かないか。

あの人に会いたいわけでもないし、毎週ランチプレートってのも何だか芸がないようで。

今日は一日家にいようか。コーヒーでも飲みながら本でも読もう。

コーヒーメーカーをセットし、ささやかな本棚を見るが、読みかけのものもないし読み返したいものもとりあえずない。

本屋に行こうと決めた。

隣駅にある本屋まで歩いて行こう。外は厚い雲に覆われていて、今にも雨が降りそうだった。

一応折り畳み傘を持った。

本屋までは15分程だ。普段運動をしていないので、軽い散歩くらいしなきゃ。

すれ違う人たち何人かは傘を持っていたので、これから降るのだろう。

割とすぐに本屋に着いた。

お気に入りの作家の棚で新しく出た文庫を探す。これとこれ。別の作家のものと合わせて3冊手にした。

いつもはじっくり見てまわり長居するのだが、雨が降る前に帰ろうと会計に向かう。

男が一人会計中だった。

「え?」

レジ前の本を見て驚いた。私が選んだ3冊と全く同じもの。

そんな偶然てある?

そして私の方を振り向いた男は、ランチ友の彼だった。

「あ、こんにちは」

「え?」私はダブルの驚きで声がつまった。

うそみたい。

「今日は行かなかったんですね」

彼は本には気付かないまま話しかけてきた。

「えぇ…それより、あの…」

「あぁ、また偶然お会いしましたね」

「えぇ、あ、いや、その」

私は袋に入れられた本を指差して

「それ、これと一緒」と自分の本を見せた。

「え?…ほんとだ全部一緒…偶然にも程がある」彼は少し戸惑った表情を見せた。

「あ、あの、決して真似したわけではなくて、だって私さっき来たばかりだし、ここにいることも知らなかったし」

私はなんだか、自分が彼のストーカーに思われそうなのが嫌で言い訳めいたことを述べた。

「あ、別にそんな…でも本の趣味、一緒ってことですよね」

「ほんとそうですよね、3冊もなんて」

レジの店員も驚いていたが、私はとにかく会計を済ませ、彼と一緒に店を出た。

「面白いですね」

歩きながら彼が言った。

「不思議…あ、…」私も話そうとすると空からポツリと雨が落ちてきた。

「雨」彼が空を見上げる。

「急ぎましょう」彼は手ぶらで、私の傘は2人で入るには小さすぎる。

パラパラ舞っているうちに帰ろうと思った。

「あ、せっかくなんでお茶でもします?」

「え?」

何を言っているのだ。雨がひどくなったら大変なのに。

「傘、持ってますよね、この路地裏に隠れ家のような喫茶店があるんです」

「でも…」空を見てためらっていると

「あ、僕も傘持ってるんで」彼はお尻のポケットから小さな折り畳み傘を出した。

「え、そんな小さいのあるんですね」

「すごく軽いんです。たぶん強度は低いけど」

傘がなくても平気な程度の雨の中、彼の言う喫茶店へと向かった。


古い外観で、知らなかったら素通りしそうな店だった。全体的にこげ茶で看板も小さいので、大通りから覗いてみても気付かない。

「たまたま見つけたんですけど、結構長く通っているんです。よくここで本を読んだりして」

他にお客さんはいなかった。中も全体がこげ茶で、あらゆるものが古い木で出来ているんじゃないかと思った。

こぢんまりとしているが、綺麗で清潔感があって落ち着く。静かなゆったりした音楽が流れていて、確かに本を読むのに丁度良いと思った。

「知らなかった。こんなに良い店があるなんて」

「今度はここで偶然会うかも知れませんね」

彼は笑いながら言ったが、私は良いとこ見つけた、休みの日ごとに通いそうと思っていたのでドキッとした。

ブレンドコーヒーが2つ来た。

ふわっと香りが広がり、温かい気持ちになる。

「この作家が一番好きなんです」

彼が袋から本を出し、1冊見せた。

「え、私も。…また偶然?」

「とりあえず出てる文庫は全部持ってます」

「私も…ってそれは偶然じゃなくて当然か。好きな作家ですもんね」

「はは…どこまで一緒なんでしょうね」

「一応最寄り駅と本の好み、か」よく考えたらそれだけか。

「では出身はどちらですか?」

なるほど、共通点探しか。でも後付けで一緒にされるってこともあり得る。

でもさすがに私は東京だし、他の地方から来た可能性の方が高いよなぁ。

「じゃ、せーので一緒に言ってみます?」と私は提案した。

「いいですよ、…せーの」

「東京」

「えー、そうなんだぁ」まさかの一緒。

「どの辺りですか?」彼が聞いてくる。

「区内ではなく、西側です」

「やっぱり」

「ってことは?」

「僕も」

詳しい場所を聞くと、これまた一緒だった。

「実家も近所」

「隣町だけど近いですね」

「えっと、家族構成は…」

彼がさらに聞いてきた。私は試しに事実とは違うことを言ってみることにした。

「両親と祖父母、兄が1人です」

本当は、祖父母はすでに他界しており妹が1人だ。

「あー、これは違いましたね。僕は両親と妹が1人だけです」

「えっ?」

「まぁ、そこまで重なることなんてないですよね」

「えぇ…」

一緒だ…。他に何かあるだろうか。

「じゃあ、血液型とか」これはさすがに同じでも驚かないけど。

「じゃ、せーの」

「A」同時に言った。

「一緒だ」彼が笑いながら言う。

「じゃ、星座?」

「はい。せーの」

「射手座」一緒だ。

「え?まさかだけど…誕生日…は」私は少し気持ち悪くなってきた。

「12月…」彼がゆっくり言う。

「…1日」私が続けて言う。

「うそ…」彼が目を丸くする。

「え?ほんと?」私が聞く。

彼が黙って頷く。

同じことが多すぎる。しかも合わせている感じではなく。

「まさか年齢は…違いますよね…」でも私と近いはずだ。

彼は生まれた年を言った。私と同じである。

今度は私が口を手で押さえ頷く。

妙な沈黙がただよった。

「あ、えっと、占いの結果、全部一緒になっちゃいますね…」

彼はつとめて軽く言った。

「あ、あはは、そうですね、一緒だ」

ちょっと怖くなった。何なんだろう。全く知らない人なのに。ほんとに単なる偶然なのだろうか。

コーヒーはすっかり冷めていた。

「あ、なんか足止めしてしまってすみません」彼はそう言うとコーヒーを一気に飲み干した。

「いえ」私も冷えたコーヒーを飲み干し、外を見た。

雨はまだ軽くパラついている程度だった。傘をさしている人とさしていない人が半々くらいの。

なんだか少し気まずくなったまま、私たちは店を出た。

「あ、僕こっちに用があるので」

本来は私と同じ方向に帰るはずだが、彼は反対側を指した。

きっと嘘なんだろうなと思いながら

「私はこのまま帰ります」と傘を広げた。

「じゃ、また」

「はい」軽く頭を下げて歩き出した。

少し進んでから振り返ると、彼の姿はもうなかった。


家に着くと心臓がドキドキしていた。怖さと興味深さと興奮で。

コーヒーをいれっぱなしなのを忘れていた。電源は自動で切れていてコーヒーは冷めていた。捨てるのはもったいないので温めなおして飲んだが、全然美味しくなかった。

買ったばかりの本をテーブルに置いた。

改めて不思議だと思った。ここまで偶然が重なると、喜んでいいのか恐れた方がいいのか頭が混乱する。

読む気にもならなくて、置いたままテレビをつけた。

芸人やタレント何人かが街を散歩する番組がやっていた。何も考えずに見られて気が楽だ。

不味いコーヒーを飲みながら眺めていた。

そういえば、あんな所にあんな喫茶店があったんだ。あのランチのカフェもそうだけど、知っているつもりでも本当は見落としていることがたくさんあるのかもしれない。

見ているようで何も見ていないものだ。

こういった散歩番組で知った店も確かにある。知ってる街でもこんな雑貨店があんな所にあったんだなんて気付かされたり。

いつの間にか偶然の彼のことも忘れてテレビを見ていた。何も考えなくていい番組って必要だ。


そんな不思議があっても私の日常が変わるわけではなく、相変わらず惰性の日々をこなす。

そしていつの間にか休日がやってくる。

一週間の出来事なんてほとんど記憶に残らない。

今日は朝からしとしとと雨が降っている。外に出る気にはならない。

ぼんやりした頭で朝食がわりのヨーグルトをすくっていると、先週買った本が目に入った。

そうだ、買ったまま手をつけていなかった。

今日はゆっくり読書の日にしようと決め、軽くシャワーを浴びた。

部屋着でソファーに座り、1冊をテーブルに置いた。私の好きな作家だ。

そういえば、あの人も好きだって言ってたな。いろいろと私と一緒の彼。

私もこの作家の本は全部持っている。新刊が出てもかさばるだけだから、文庫になるのを待ってから買う。

きっと彼もそうなのだろう。

一週間ぶりに彼のことを思い出した。ランチプレートのカフェ、路地裏の喫茶店、冷めたコーヒー、小さな傘。外を見ると雨は静かに降り続いている。

今、どこかに出かけたら、また会うのだろうか。

でも、どの店にも行く気にはならない。彼に会うのが嫌なわけではないけど。

たぶん良い人だし、押し付けがましい所もない。逆に私が倦厭されるかもしれない。

偶然が重なりすぎる女と思われているだろうか。心外だけど。

ま、結局は他人である。気にしなくていっか。私は習慣のように自然にコーヒーメーカーへ向かった。しまった。コーヒー豆切れてるんだった。

昨日帰りに買うのを忘れたのだ。


外には出たくなかったが、スーパーはすぐ近くだ。ささっと買ってこようか。

外出用の服に着替えながら、もしスーパーで彼に会ったらどうしようと思ったが、さすがにそこまでは続かないだろうと部屋を出た。

大きな傘をさし、スーパーまで歩く。それほどひどい雨ではないので気は重くなかった。

自動ドアが開き、ぱっと中を見るが知らない人ばかりだ。少しだけ安心してコーヒー豆を選ぶ。

ミルもあるのだが、面倒なのでいつも粉のやつを買う。種類はその時の気分で適当に変える。

少し甘いものもと思い、クッキーとチョコレートもついでに選びレジに向かう。

ざっと見渡すが彼の姿はない。普通に買って普通に店を出る。雨はさっきより少し強くなっていた。

もしレジに彼がいて、私と同じものを買ってたらすごいな。味覚も一緒、行動パターンも一緒。もしかして彼が私のあとから来ていて後ろに、ふとそう思って振り返るが、もちろんいない。気まずくて隠れてたりして。そんなわけないか。私は歩き出す。


本当にたまたまってあるんだなぁ、なんて考えながら歩いていると、彼に彼の家を教えてもらったことを思い出した。

この先のドラッグストアの近くの公園の横。確かに小さめのマンションが建っているはずだ。他は一軒家ばかりだからひとつしかない。

何となく私はそこまで行ってみることにした。会えなかったことに淋しさを感じたのだろうか。いや、そんなことはない。恋愛感情はないし、私はストーカーでもない。

気がつくとそのマンションの前にいた。

エントランスに郵便受けが並んでいる。珍しく住人の名前が書いてあるが、彼の名前は見つからない。

さすがに部屋番号までは聞いていないので、どの部屋かは分からないが、彼の言うマンションはここしかない。

疑問が浮かんだ。偽名?それともこの場所が嘘?

よく考えたら、知らない人間に名前も住んでいる所も素直に言うだろうか。

私は少し肌寒くなり帰ることにした。


部屋に入ってのろのろとソファーに座る。

確かに彼が全て真実を語っているとは限らない。

でも遭遇したり同じ本を買ったり、誕生日や出身が一緒だったりというのは嘘はつけないはずだ。

私が家族構成をごまかしたように、彼が罪のない嘘をついていたとしたら?

私が本当のことを言っていたら彼と一致していた。としたら、彼が嘘をついていなかったら私と一致していた?例えば私と同じ名前、私と同じ住所。

そんなことはありえない。急に怖くなった。

平凡すぎる名前はとっさについた嘘にも思える。公園横のマンションは説明がしやすい場所にあるから。リアルな嘘。


私はふらっと立ち上がり、自分の住むマンションの郵便受けを見に行った。

彼の言った彼の名前はない。私と同じ名前も他にはない。

まだ頭が混乱したまま部屋に戻る。

待って、もし、もし彼がストーカーだとしたら。

私の誕生日、出身地、血液型を調べる。本の好みも住所も。

私のあとをつけ、先回りして偶然を装い出会う。

そんな。

いや、さすがに同じ本を自分より先に選ぶことはできないはずだ。

本当に全ては偶然の一致なのだろうか。そうであって欲しい。

何が本当なのかがだんだん分からなくなる。

彼の顔を思い浮かべるが、ぼんやりとして思い出せない。

あのカフェに行けば彼に会えるだろうか。あの喫茶店に行けば彼に会えるだろうか。

そわそわして、いてもたってもいられず私は外に出た。

大きな傘をさし、隣の駅方面に向かう。喫茶店でコーヒーを飲もう。

せっかくの休日だ。外で飲んでもいい。

雨はさらにひどくなっていく。

確かこの路地裏に、こげ茶の店が…。

ない。見つからない。小さな看板を探す。隣の路地もその隣の路地も探すが見つからない。

閉店したあともない。

私は混乱する。あのカフェに行こう。その足で駅に向かい電車に乗る。

20分程かけてターミナル駅で降りる。少し歩いて、この先にあのカフェが。

ない。確かこの通り。覚えづらいガラス張りのスペースとよくあるビルの間に。あるのはコンビニだ。隣の通りにもその隣の通りにも、ない。

本当にあのお店たちは存在したのだろうか。

本当に彼は存在したのだろうか。

ふらふらと駅に戻り家に帰る。

最寄りの駅で降りて、歩く。私のマンションに向かう。

あれ、こんな色だったっけ。記憶がぼやける。エントランスの郵便受けの名前を見る。

私の名前がない。ここは私のマンションだったっけ。私の名前はなんだっけ。

私は存在したんだっけ。

雨はさらに激しさを増し、轟音が町を包む。

水しぶきが煙って視界がぼやける。

道路に落ちた傘を豪雨が砕いていく。

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