ある夏の日

Cris

7月24日

「あ〜腹いっぱい」

 ワイシャツにズボンをはきっぱなしの男子高校生が自分のベッドに仰向けで倒れる。

なぎさのお父さんの料理、おいしいね」

 顔だけ少し上げて渚は「だろ?」と言う。視線の向こうにはローテーブルの側で片膝をたてて座っている、同じ服装の男がいる。

「あのさ、束沙つかさ……」

 渚は勢いをつけて起き上がる。すると、布団が滑ってドンッと落ちた。

「って〜〜!」

「だいじょ……ふっ」

「な、笑うなよ〜!」

 渚は頬を赤らめて怒ったように言うが、束沙は「ごめん、ごめん」と言いながらも笑いを堪えきれない。さらに下の階からも「大丈夫か〜?」という声が届いてくる。渚は「ちょっとベッドから落ちただけ〜」と返した。

「……で、どうしたの?」

 束沙は微笑みかける。外の光が色素の薄い髪の上で遊んでいる。それに一瞬目を奪われた渚は、不思議そうに名前を呼ばれて我に返る。

「えっと、率直に訊くけどさ」

 視線を少し外しながら口籠る。一度深呼吸した後、束沙の顔を直視して言い切る。

「宿題手伝ってくれないか?!」

 束沙は目を丸くし、すぐに少し眉を下げて微笑む。

「いいよ、渚の頼みなら」

 あぁ今、躊躇ったな……。

 取り繕うような笑いをする渚を眺めて感じる。

 僕の想いを打ち明けたのは、昨日のことだ。

「あのっ……えっと……」

 昼休みに人がほとんど来ない階段裏に呼び出され、一つ下の女子は顔を赤くして挙動不審だった。あぁ申し訳ないな、と思いながらも実際の用件を聞くまで何も言えない。

「昨年の体育祭から、ずっと気になっていて」

 バスケだったっけか、懐かしいな。

「今年の文化祭でも、かっこよくて」

 クラスでダンスしたんだよな、何故か僕がセンターにされたけど。

「先輩のことが、っ、好きですっ! 付き合ってください!」

 最敬礼されるが、返事は決まっている。

「そう言ってもらえてうれしいよ。でも、ごめんなさい」

「っ、いえ……大丈夫、ですっ」

 女子は今にも泣き出しそうな顔で走っていった。

「はぁ……」

「よっ」

「うわっ!」

 渚がひょこっと顔を出していた。僕の方に来る。手にはアップルジュースと緑茶を持っている。

「おつかれサマ。ほんと、束沙はモテんな〜。俺は一回もコクられたことねぇぞ」

 そう言いながらアップルジュースを投げてよこす。

「おアツイね〜」

 そう言いながらフタを開ける。

「あ、ちょ……」

 ゴクンと飲むとすぐ目を丸くして嫌そうな顔になる。

「うぇ、緑茶じゃんか……」

「飲む前、ていうか渡す前にラベル確認しなよ……」

 渚が相当焦っているのを見て、内心笑ってしまう。

「ほら、飲みな」

「うう、ありがと……でも、こっちどうしよ」

 緑茶を可哀想に見る。

「僕が飲むよ」

「え、でも口つけちゃった」

「いいから」

 しぶしぶといった風に交換してくれる。

「金払うよ」

「い〜ってい〜って、俺の奢り!」

 笑顔が眩しい。こちらも笑顔で「ありがとう」と返せる、偽りのない純粋な笑顔。僕の黒い感情も強くなるけど、出ないように蓋をする。

「そういや束沙が付き合っているとか聞いたことないけど」

 その蓋の重しを無邪気に退かしてくる。

「誰か好きなヤツとかいるのか?」

「……いるよ」

 その笑顔を壊したくないのに、

「え、初耳! だれだれ?」

 黒い感情が漏れ出る。

「渚のこと」


 軽快なノック音とともにドアが開かれる。

「オレンジジュース持ってきたぞ。束沙くんも、ジュースで良かったか?」

「はい、ありがとうございます」

「ありがと〜」

「蹴らないようにな」

「は〜い」

 床におぼんごと置き、父親は部屋を出る。渚はぐーっと伸びをしてジュースに手を伸ばす。

「ちょっと休憩〜」

 束沙は手を止めない。

「ジュース、飲むか?」

「う〜ん、一口くらいなら」

 眉根を少し寄せて微笑む。渚は軽く眉を下げて言った。

「ムリしなくていいよ、ぜんぶ俺が飲んでやる!」

 後半はふざけ調子で言ってやると、束沙はふっと笑って「じゃあ頼むよ」と言う。

 あの時も、堪えるような、消えそうな顔だったんだよな……。

「渚のこと」

 自嘲するような笑顔で、真剣な目で言う。

「え……」

 意味を理解できない。束沙が、俺のことを、好き?

 チャイムがなる。束沙は微笑んで言った。

「友達として、ね。さ、行こう、授業に遅れるよ」

 苦痛を堪えるように、自身の存在を消したそうに、何よりも淋しそうに見える。絶対に違う意味なのに、何も返事ができずに離れていく。

 帰りに詳しく訊こうと思っていたら、気づいた時には束沙は先に帰っていた。

 朝はいつもの時間に迎えに来なくて、一人で学校に行ったら周りに驚かれた。束沙は始業ギリギリに来た。

 体育座りでぼーっと考える。なんで束沙は俺を避ける? 束沙の好きは、話の流れから恋愛的な意味だったと思うけどなんで嘘ついた? 俺はあの時、なんで何も言えなかった? 束沙といないと寂しいけど、この寂しいはきっと親友としての好きで束沙のとは違うだろうし、俺はあの時なんて言えば良かった? 俺は束沙の好きに……。

「渚〜? いつまで座ってるん?」

「え、あっごめんごめん! 考え事してた」

「あの渚が〜? 珍し」

「なんだと〜!」

 ふざけながらも束沙のことを考えてしまう。これは、どういう『好き』なんだ?

「あんま考えすぎんなよ〜、知熱でさらにバカになるぞ〜!」

「なんだそれ!」

 ……考え過ぎ、か。確かにいつも俺は勢いで動いてるかもな。……よし!

 大掃除をさっさと終わらせて駐輪場で束沙を待ち伏せする、つもりだったけど、先生に捕まって結局全力で束沙を追うことになった。クソ〜!

「つーかーさーっ!」

 名前を叫ぶと止まってくれる。

「渚?」

「おまえ〜〜!」

 坂道で止まろうとしたせいでブレーキのタイミングをミスる。

「通り過ぎちまった!」

「何やってんの……」

 呆れた声の中に笑いが含まれている。一歩ずつ後ろに下がって束沙の隣まで戻る。

「おまえ、なんで俺のこと避けるんだよ!」

「え? そんなつもりは……」

「あったろ! それか無意識か?」

 わざとだとわかってはいるが、勢いに任せて言う。束沙はすまなそうに、だが少しうれしそうに微笑む。

「ごめんね」

 俺は、考えずに言ってもいいのだろうか。そう疑問に思うが、考えてたら何もできなくなるのは分かった。だから。

「束沙さ……おまえが俺のこと好きなんだって気持ちはわかった」

 束沙は相変わらずの淋しい微笑みで「友達としてね」と言うが、聴いてやんねぇ。

「いや、おまえの言葉はガチのやつだ」

 面食らったような顔をする。なんでそんな驚くんだよ……。

「俺は、恋愛なんてしたことねぇし、どんな感情なのかも知らねぇし、おまえのことを完全に理解できる訳でもねぇ。けどな」

 少し息をつく。

「けど、この1年半で束沙と一番仲良くしてきた自負はあるし、束沙が側にいないのは寂しいし、というかあんま考えられねぇし、……」

 恥ずかしくなってきた。束沙が少し心配そうな顔をしている。でも、言わねぇと、消えてしまいそうで。

「束沙が悲しそうだったり淋しそうだったりすると、俺も……俺がなんとかしたいって思うんだ。だから、俺のはおまえのとは違うだろうけど、その」

「言わなくていい」

「いや、言う」

「なんでだよ!」

 束沙が声を荒らげるのは初めてだ。

「なんで僕に構ってくれるの? なんで僕に合わせようとしてくれるの? なんで僕の傷を深くしようとしてくるの?」

「いや、そんな……」

「なんでっ」

 束沙は苦しそうに泣いている。

「なんで僕を照らしてくれるんだよぉ……」

 いつも大人っぽいから、差がすごい……。じゃなくて、束沙は身体を丸めていく。慌てて背中をさすろうとして、下り坂で自転車に跨っていたことを忘れていた。

「っぶね!」

「……なに、やってるの?」

 ぽかんとした顔でこっちを見る。

「いや、自転車が走り去っていくところだっただけで……」

「ふっ、何やってんだよ」

 笑ってくれた……良かった。

「ふぅ、って!」

「なんでサドルから落ちてんだよ!」

 束沙は声を上げて笑った。


「腹いてぇ……」

「ジュース飲み過ぎなんだよ」

 腹部を押さえていたところから姿勢を直して渚は言う。

「じゃあな」

 束沙は微笑み返す。

「ああ、また明日」

「おう、また明日……明日? 明日も来るのか?」

 目を丸くする渚に束沙は答える。

「ああ、夏休み中は毎日来るつもりだった」

「毎日!? 土日も? つーかバイトすんじゃなかったのか?」

「するよ」

「じゃあ……」

 束沙は渚の目の前に顔を近づけささやく。

「好きな人に会えるなら、バイトも楽になるんだ」

 渚は顔を赤らめる。その様子を嬉しそうに見た束沙は、自転車を押して歩き出す。

「それに、渚とやったほうが宿題捗るからさ〜」

「そうか、じゃあ」

 渚はニッと笑った。

「また明日!」

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