第1章1話
王城の敷地内にある演習場に、剣がぶつかり合う音が響き渡る。
王城直属のベルべーラ騎士団の騎士たちが、まさに今稽古に励んでいるところだ。熱気に包まれた空間の中で汗を流す騎士たちに混ざり、グレイスも剣を振るっていた。
今グレイスが相手にしているのは、最近入団したばかりの新米騎士だ。新米とはいえ、この騎士団には相応の腕がある者しか入れない。グレイスも負けじと攻め込んでみるが、なかなか隙を見せてくれず、勝負が長引いていた。
気がつけば稽古に集中していたはずの騎士たちが手を止めて、どちらに軍配が上がるか見守り始めている。
グレイスが粘り強く守りに徹していると、相手の動きに荒さが出てきた。大きく剣を振りかぶったところで、グレイスは勢いよく相手の剣をなぎ払う。
鈍い音を立てて、剣が床を転がった。
「……参りました。正直、負けるはずないって高を括っていたんですけど」
新米の男が悔しさを滲ませながら、負けを認める。
「対戦してくれてありがとう。すごく楽しかった」
グレイスが笑顔で声をかけると、新米の男も表情を和らげた。
「いえ、こちらこそ。こんなに腕がいいなんて驚きました」
「あなたの腕も素晴らしかったわ」
グレイスが手を差し出し、お互いに握手を交わす。観客と化していた騎士たちから、パラパラと拍手が起きた。すると、その中からひと際大きな拍手が聞こえてきた。騎士たちの中から男がひとり前に出て、グレイスに歩み寄る。
「いやあ、とても剣の稽古を始めたばかりとは思えないな。グレイス嬢」
声をかけてきたのはこの騎士団の団長を務めているアルバートだ。
「アルバート団長。ご機嫌よう」
グレイスはいつもの癖で令嬢らしく挨拶を口にしてから、今はドレスでないことに気づく。
「この調子だと、俺がグレイス嬢に倒される日もそう遠くなさそだ」
「とんでもないです。わたしなんて団長の足元にも及びませんよ」
「いや、近頃の上達っぷりを見れば、あり得ない話ではないぞ。ただの趣味にしておくにはもったいないくらいだ。いっそ、うちに入らないか?」
「またまた、ご冗談を」
アルバートは快活に笑いながらも、目の奥が笑っていない。雑談を交わしつつ、グレイスの魂胆を探ろうとしている気配がひしひしと伝わってきた。
無理もない。女性の騎士ですら珍しいというのに、剣に縁もゆかりもなかったどこぞの令嬢がいきなり稽古に参加し始めたのだから。
もっとも、参加の許可を出したのはアルバート自身だ。アルバートも最初は面白半分の軽い気持ちだったのだろう。
ところが、稽古を始めるなり、グレイスは他の騎士と同じくらい熱心に稽古に励み、めきめきと腕を上げていった。何か裏があるのかもしれないと勘繰るのも、当然と言えば当然の話だ。
しかし、稽古に参加している本当の理由など、言えるはずがない。
すべては美味しいビールを飲むため、これに尽きる。
そして、なぜ剣の稽古なのかと言えば、仕事だけでは体への負荷が物足りないと感じるようになってしまったからだ。
もっと美味しくビールを飲むためにも、さらに体に負荷をかけるべし。いい方法はないかと探していたグレイスは、ある日演習場で稽古に励む騎士団を見かけた。
求めていたのはこれだ。ビビッときたグレイスはその場で団長に直談判したのだった。
「稽古に参加させてもらって、アルバート団長には本当に感謝しています。剣に励むと身も心も引き締まり、毎日を清々しい気持ちで過ごせています」
気休めでもなく、グレイスの本当の気持ちだった。最近では朝の目覚めもいいし、ビールの飲み過ぎで出てきた下っ腹も引っ込んだ。
「いやいや、我々こそ、いい刺激をもらっている。ずっと団員同士で稽古をしていると、相手の剣筋に慣れてしまうからね。そのせいで団員たちの成長が頭打ちになっているのが、悩みの種なんだ」
どうやらアルバートもこれは本心らしく、真剣な面持ちで言う。
「ベルベーラ騎士団は、外部の剣士を交えての稽古はされないのでしょうか? 隣国の騎士団は、ギルド所属の剣士の方々と定期的に模擬戦をしているそうです。この国の王都にもギルドがいくつかありますし、腕のいい剣士も多数いると聞きました」
「ああ、うちではそういうのはしないんだ。野良の剣士は野蛮なやつらばかりでね」
アルバートが鼻であしらうので、グレイスは軽い気持ちで口にしたことを後悔した。
この国は、技術も発展し経済も潤っている一方で、古くからの身分や格差が根強く残っているところがある。王城近辺に身を置く者の中には、それ以外の者を受け入れようとしない。そういう意見に出くわすたびに、グレイスはなんとも言えないもどかしさを感じていた。
「あいつらは、昼間っからビールなんてものを飲んで、だらだらしているだけで、まともな稽古なんぞしてないからな」
アルバートの瞳には侮蔑が滲んでいた。ビールまで一緒に蔑まれたことで、苦々しい気持ちが倍になる。
「そうですか。不要な助言をしてしまいましたね」
本心を押し隠して、グレイスは微笑みを貼り付けた。
「いやいや、それはいいんだが。もしやグレイス嬢、ギルドにも出入りをしているんじゃ……」
油断していたら、またアルバートの詮索が始まった。
長くなると厄介なので、そろそろ話を切り上げたい。何より、グレイスには早く邸宅に帰りたい理由があった。
グレイスは、演習場の隅に控えているノーマンに目で合図を送る。それを察知したノーマンは、あからさまに懐中時計を取り出して時間を確認した。
「お嬢さま、そろそろ」
「すぐ行くわ」
ノーマンに返事をして、アルバートに向き直る。
「すみません、このあと用事がありまして。そろそろ失礼します」
「あ、ああ。引き留めてすまなかった」
まだ何か言いたげなアルバートのもとをさっさと後にし、ノーマンと一緒に演習場を出た。
「馬車は呼んであります」
門までの道のりを歩き出すなり、ノーマンが告げる。
「ありがとう。1秒でも早く家に帰らないと」
グレイスは結っていた長い髪を解きながら、足を速める。
門の前で待機していた馬車にほぼ駆け足で近づき、グレイスは御者に声をかけた。
「悪いけど、できるだけ急いでもらえるかしら?」
「は、はい! かしこまりました!」
グレイスの鬼気迫る表情にただならぬものを感じたのか、御者は気を引き締める。御者が手綱を強く引き、馬は街中を疾走した。
邸宅に着くと、グレイスは一目散にまずお風呂場へと向かう。さっと汗を流し、清潔な衣服に着替えると、部屋ではノーマンが風呂上がりの一杯を用意してくれていた。
待ちに待ったキンキンに冷えたビールだ。
グレイスはグラスを掴むと、ひと息に飲み干した。
「ああ~、やっぱり稽古のあとの一杯は格別よね!」
まさに至福のひととき。あえて水分を取らずに、ここまで我慢した甲斐があった。一滴一滴が体に染み渡り、細胞が喜んでいるのがわかる。
「ノーマン、もう一杯もらえる?」
「最近、飲みすぎではないですか?」
空になったグラスを差し出すと、ノーマンは不満げにグレイスを見つめ返す。
こうやってグレイスがビールを飲めるのも、ノーマンが内密に手配してくれているからだ。けれど、グレイスのビールへの執念に妥協しているだけで、ノーマンはグレイスがビールを飲むことをあまり快く思っていない。
「大丈夫よ。飲んだ分、動いているから」
「そういう問題ではないのですが」
ぶつくさ言いつつも、ノーマンは新しい瓶を手に取って栓を抜くと、グラスに注いでくれる。ビールがグラスに流れ落ちていくときに聞こえる、とくとくという音がグレイスは好きだった。
注ぎ終えると、ノーマンは小言を続ける。
「お嬢様、そろそろビールを飲むのは控えていただけないでしょうか」
「それは無理。わたしにとって、これが今の一番の生きがいなんだから」
これまでにノーマンから同じようなことを何度も指摘されているが、その度にグレイスは即答している。
出会ってしまったが最後、ビールのない生活に戻るなどグレイスには想像ができない。
「それならせめて、派手な行動は慎んでいただきたいです。なにも騎士団の稽古に参加しなくても。家でひっそりビールを飲むだけでもいいじゃないですか」
「だって、もう体が普通にビールを飲むだけじゃ、満足できなくなってるんだもの」
「ですが、お嬢様の行動は目立ちすぎです。先ほども、アルバート団長に詮索されていたじゃありませんか。よくも悪くも、力がつくと周囲は注目するものですよ」
ノーマンの言う通り、グレイスの行動に目を付けているのは、アルバートに限った話ではない。
聞いた話によれば、司書以外の仕事にまで手を伸ばし、さらに剣の稽古まで始めたグレイスについて、人々は様々な噂話をしているという。後ろ盾の弱い実家のためではないかというありきたりな話から、出世をして国家転覆を狙っているのではないかという突拍子もない話まであるらしい。
実際には、どの噂もグレイスの本来の目的からはかけ離れているのだが。
「このままでは、どんなトラブルに巻き込まれるかもわかりません。私は本当にお嬢様の身を心配しているのですよ」
ノーマンが憂いを帯びた顔をするので、さすがのグレイスも罪悪感で胸が痛んだ。
誤魔化すようにグラスに口を付けていると、ノーマンが続ける。
「それに万が一、こっそりビールを飲んでいるなんて誰かに知られたら……想像しただけで胸が詰まります」
ノーマンの懸念を、グレイスは理解している。
この国では、ビールを飲む令嬢などいない。それはビールの味云々の話ではなく、ビールと品性は共存しないという価値観が根付いているためだ。
ビールを飲んでいると知れたら、罪に問われることこそないが、変わり者というレッテルを貼られ、後ろ指をさされるだろう。
それがわかっているから、グレイスだってノーマンに内緒でビールの手配を頼み、屋敷の自室でひっそりと飲んでいるのだ。
けれど、グレイスはどこかで常に違和感を覚えていた。
「そんなにおかしいことなのかしら……」
グレイスはグラスを見つめながら呟いた。
「ビールを飲むことは、どうしていけないの?」
ビールは令嬢が飲むべきではない。そういう考えがあることは理解している。でも、気持ちの面ではずっと納得できないままだ。
「それは……」
ノーマンは少し考えるような間を置いてから、自分なりの答えを導き出した。
「ビールに限った話ではありませんが、お酒に溺れて堕落する人はたくさんいます。働きもせず昼間からお酒を浴びるように飲み、お酒のことしか考えられなくなる人もいますよね」
「うっ……」
ノーマンはあくまで一般論として話しているはずだが、グレイスは今の自分に当てはまる気がして、ノーマンの言葉が胸にぐさりと刺さる。
「下町のほうでは、酔って乱暴を働く者もいるとか。ビールは昔から下町でよく飲まれているようですし、それもビールに対する悪いイメージを冗長しているのではないでしょうか」
確かにそういった背景は、グレイスも耳にしたことがある。
グレイスも自分がビールを手に取るまでは、漠然とよくないイメージを持っていたように思う。
「でも、実際はどうかしら。ビールはこんなにも美味しいし、生きる活力になる」
ビールのおかげで仕事を頑張れる。稽古に励んで剣の腕が上がった。
家に帰ればキンキンに冷えたビールが待っていると考えるだけで、足取りが軽くなるし、心が弾む。
ビールは人生に彩りを添えてくれるものだ。
「ねえ、ノーマン。わたしは、この国にある凝り固まった価値観を変えたいわ。こんなふうに隠れて飲むのではなく、いつか堂々とビールが飲みたい」
グレイスはグラスの中のビールの泡の中に、この国の未来を夢見る。
「飲みたい人が飲みたい時に飲みたい場所で、自由にビールを堪能できる。そんな国が実現したら、とっても素晴らしいと思わない?」
「お嬢様……」
グレイスの熱弁に、ノーマンは感動で瞳を揺らす。
けれど、雰囲気に騙されているだけだと気づき、すぐに真顔に戻った。
「いえ、特に思いません」
「あ、そう。はあ~、わたしが国王だったら、今すぐに法律を変えて常用水をビールにするのに」
そんなことをぼやいていると、グレイスは空腹を覚えた。あれだけ稽古で体を動かしたのだから当然だ。いくらビールは腹が膨れると言っても、食事の代わりにはならない。
夕餉までの間に何か少し口に入れようかと考えつつ、ふと先日の食事のメニューを思い出す。
「そういえば、この前夕食にソラマメの塩ゆでを出してくれたわよね」
「はい。旦那様が庭で育てたものを使わせていただいたんです」
グレイスの父は、もともと園芸が趣味で最近では家庭菜園にまで手を出し始めた。
「あれ、ビールにすごく合いそうだと思っていたのよね」
「お嬢様、本当にビールのことしか考えていないのですね」
ノーマンが嘆かわしいといような目を向ける。しかし、ノーマンの言葉通り、もうグレイスはビールのことで頭がいっぱいだった。
「……そろそろ、おつまみを研究してみるのもひとつの手かもしれないわね」
グレイスは口元が緩むのを感じた。
「ふっふっふっ……」
笑い声を零すグレイスを、ノーマンが気味悪そうに見つめる。
自分がまだ知らないだけで、ビールの楽しみ方はもっとたくさんあるはずだ。これから、もっと美味しいビールを求めて試行錯誤ができるのかと思うと、グレイスは胸が高鳴るのだった。
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