公爵令嬢は、おいしいビールを所望する!

瀬戸みねこ

プロローグ 黄金色の啓示


 執事のノーマンが恭しい仕草でテーブルに置いた紅茶を見て、グレイスは深いため息を吐いた。

「ノーマン。これが1日の労働を終えて疲れきっているわたしに出す代物だというの?」  

「何か問題がございますか?」

 グレイスが言わんとしていることを承知のうえで、ノーマンは涼しい顔で返す。

 紅茶に問題はない。香りからして茶葉は一級品だとわかる。

 ノーマンの紅茶の淹れ方は一流だ。カップは事前に十分温め、その日の湿度に合わせてコンマ単位で蒸らす時間を見極めて淹れている。だから、ノーマンが淹れる紅茶はいつも美味しい。

 ノーマンは執事として、とても優秀だ。幼い頃からグレイスに仕えているため、大抵のことはこちらから伝えるまでもなく先回りして用意してくれる。仕事も丁寧で抜かりなく、グレイスも信頼を置いている。

 だからこそ、確信犯的に紅茶を出してきたノーマンに憤りを感じているのだ。

 そうは言っても怒りをぶつけたところで解決にはならない。淑女たる者、冷静に理路整然と相手に理解を求めるべきだ。

 グレイスは心を落ち着け、順序立てて話そうと決める。

「……そうね。いつかあなたには、きちんと話さないといけないと思っていたの。わたしがあれに目覚めたきっかけについて」

 そして、グレイスは静かに語り始めた。

「あれは、3ヵ月ほど前のことだった。あの夜、わたしは司書の仕事の合間に読んだ本の内容がどうしても気になって、下町の酒場へと向かったの。最初は、騒然とした町の雰囲気にそのまま引き返そうかとも考えたわ」

 普段は、何か特別な用事でもなければ下町には足を運ばない。令嬢であるグレイスがひとりで歩き回れば、何かしらの問題に巻き込まれることだってあり得る。それでも、わざわざ簡素な服装に着替え、変装をしてまで出向いたのには訳があった。

「わたしはどうしても知りたかった。本で読んだ内容がその通りなのか。それは一体どんな代物なのか。この目で見てみたかったの」

 そうして辿り着いたのは、町の一角にある酒場だった。窓からは賑やかな声と、どこか懐かしい温かな明かりが漏れていた。

 グレイスは窓に近づくと、恐る恐る店内の様子を窺った。

 店は繁盛しているようで、たくさんの客で溢れ返っている。グレイスは本で読んだものを求め、客たちのテーブルの上を目で探った。

 そして、それを見つけた。

「衝撃だったわ。まさか、あれほどまでに美しいとは思っていなかったから」

 テーブルの上には、大きなジョッキに黄金色の液体が並々と注がれていて、上のほうには柔らかそうな白い泡がのっていた。

 ジョッキの表面に浮かんだ水滴が、店内の照明を受けてキラキラと輝いている。きっと、中の飲み物をより最適な状態で堪能できるよう、ジョッキが冷やされているからだろう。

 グレイスが息を呑む目の前で、店員が新しいジョッキをテーブルに置いた。運ばれてきたばかりのそれを、客の男は勢いよくぐっと仰ぎ、ごくごくと飲み干していく。 見ているだけで、グレイスの喉がこくりと鳴った。男はあっという間にジョッキを空にしてテーブルの上に置く。そして、手の甲で乱暴に口元を拭うと、この世で最高の愉悦を味わったかのように嘆息したのだ。

「まるで未知の世界への扉が開かれたようで、わたしの胸は高鳴っていたわ。それが、わたしのビールとの出会いよ」

 恍惚と話すグレイスに、耐えかねたようにノーマンが息を吐いた。

 ノーマンは呆れている様子だが、グレイスは構わずに続ける。

「あの時、そのまま店に乗り込まなかった自分を褒めてあげたい。それだけ、わたしの胸はビールへの探求心で溢れていたの」

 その夜、グレイスは邸宅へ戻るなり、ノーマンにビールを手配するようお願いした。ところが、それを聞いたノーマンはその頼みに応じるのを渋った。

 欲しいと言えばどんなものでも用意してくるノーマンが、グレイスの要望を断ることはめずらしい。

 それには、理由がある。ここトルメリア王国では、身分の高い者ほどビールを手にしない風潮があるからだ。ビールは庶民が口にするものであり、貴族たちはもっぱらワインやウイスキーを好む。ましてや、女性である令嬢がビールを嗜むとなると、品性を疑われかねない。

 それでも、毎日のように懇願するグレイスにやがてノーマンのほうが折れ、内密にビールを手配してくれることになった。

 そして、待ちに待った日。

 ついにグレイスは念願のビールとの面会を果たしたのだ。

 高鳴る鼓動を必死に抑えて、グレイスは社交界での挨拶のようにそっとグラスに口をつけた。

 しかし、ひと口飲んだグレイスの感想は、「苦い」というものだった。

 最初は何か手違いがあったのではないかと疑った。けれど、ノーマンが凡庸なミスをするはずもなく、グラスも冷えていて飲み方が間違っているというわけでもない。

「一時は、わたしも諦めたわ。ビールのことは忘れ、日常へと戻った。だけど、ふとした瞬間に、あの日の光景が蘇ってくるの。美しく輝く金色の泡、グラスを濡らす宝石のような雫、浴びるような勢いでそれを飲み干す人々。わたしにビールを楽しむ才能がなかったのかしらと、しばらく思い悩む日が続いたわ。でも、その瞬間はやってきたのよ」

 あれは、初めてのビールに挫折した日から、ひと月が経った頃だ。朝から季節外れの蒸し暑さで、そんな日に限って王城図書館の蔵書点検があった。

 司書として働くグレイスは、汗だくになりながらやっとの思いで仕事を終え、屋敷に戻って湯を浴びるなり、ふとビールが頭に浮かんだ。

「あれは、天の思し召し。神からの啓示。運命に導かれるように、わたしは再びビールを手に取ったの」

 すぐさまノーマンにビールを用意してもらい、グレイスは緊張の面持ちでグラスを傾けた。

「あの時のことは、生涯忘れないでしょう」

 ひと口飲んだ瞬間、体に電流が走った。

 そのまま衝動的にグラスを傾けてビールを喉に流し込み、あっという間に最後の一滴まで飲み干していた。

 そして、深く嘆息した。

「まるで生まれ変わったような気分だった。いいえ、あの時本当に、わたしの第二の人生が始まったの」

 グレイスは、「苦い」という感想だけしか出てこなかった一度目と、今回の違いは何かを考えた。

 どうやらビールを美味しく飲むには、肉体的な負荷が必要なようだ。

 空腹は最大の調味料と言うが、ビールには労働がスパイスになってくれるらしい。

 グレイスは決めた。美味しいビールを飲むために、仕事を頑張ろうと。

 それからというもの、グレイスは司書の仕事にさらに力を入れた。通常の業務だけでは飽き足らず、のめり込むように本を読み漁り、その知識を活用して今では官僚や役人たちの口利き役になっている。

 それもこれも、すべてはビールをより美味しく飲むためだ。

「ノーマン。今日、わたしは隣国の希少本を手に入れるために朝から砂漠の行商人を訪ね、夕方から交易品交渉のために執務室に缶詰めになっていたの。司書の仕事を通常の5倍のスピードで片付けて、今ようやく自室で自分の時間を楽しもうとしている。そんなわたしに出す一杯が紅茶でないことくらい、優秀なあなたがわからないはずないわ。今夜、わたしに出すべきは……」

 グレイスは、テーブルの上を人差し指でコツンと叩きながら告げる。

「キンキンに冷えたビール、でしょう?」

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