第三章 偽・乙女恋戦鎮魂曲 その五



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 靴箱に入っていた一枚の脅迫状――超喫茶エウロパでこの問題を相談してからというもの、坊君は工業高校の校舎の非常階段からM高校のグラウンドを監視するようになりました。普段はその一挙手一投足に乙女に関する何らかの事情を内包させている彼ですが、今回ばかりはトラブルに巻き込まれた僕だけのために行動してくれているようです。


 しかし、ご縁というのは不思議なものです。まだ桜が舞っていた四月初め、僕が女装をして路地裏を歩かなければ、坊君は、乙女という存在しない女子生徒に恋煩いをすることはなく、僕たちは一度も言葉を交わさずに日々を送っていくはずでした。脅迫状の件も彼の存在がなければ、僕は今頃、誰にも相談することなく、行き場のない不安に押し潰されていたことでしょう。


 赤焼けの空が眩しい放課後、グラウンドを走る僕に、現在進行形で坊君の鋭利な視線が刺さり続けているわけですが、素性も知らない流星高校の不良に対して、これほどまでに心強い警護はありません。事件性の乏しい生徒間の問題ですから、きっと警察はただの悪戯と決めつけて相手にしてくれないでしょう。少なくとも、彼ほど真剣に僕の味方をしてくれるとは思えないのです。


 今日の部活動も無事に終了し、グラウンドで片付けをする僕は、依然としてこちらを監視する坊君に手を振りました。彼は組んでいた腕をほどくと、表情を変えずに手を振り返してくれました。やはりずっと僕のことを見守ってくれていたようです。出会いのきっかけは歪だったかもしれませんが、僕たちの間には間違いなく友情のようなものが芽生えていました。


 さすがの坊君も帰路まで監視を続けることはありません。更衣室で制服に着替えた僕はスポーツバッグを肩にかけ、いつものように一人で駅ビルへと向かうことにしました。


 しかし、思いもよらない人物が、正門前で僕の下校を待っていました。彼女は聖クレア女学園のセーラー服を着て、学生鞄を両手で持ち、じっと僕のことを見つめていました。その表情はどこか怒っているような、はたまた言いようのない不安に駆られているような様子で、周囲からの視線を一身に受けながら、僕の妹はそこに立っていたのです。


 僕は妹のそばに歩み寄り、そして、彼女が話し始めるのを待つことにしました。


 しかし、僕を待っていたはずの妹は一向に口を開こうとしません。彼女は難しい表情をしたまま、僕の顔をじっと見つめています。


 少しして、妹はようやく僕の目から視線を外すと、そのままスタスタと駅ビルの方へと歩き出してしまいました。


 結局、僕たちは終始無言のまま駅ビルの改札を抜け、各駅停車の電車に乗り、二駅先にある自宅まで帰ってきてしまいました。自宅の門扉をくぐり、妹は玄関の扉の鍵を開けると、こちらを振り返ることもなく、自宅の中へと入っていきました。普段からあまり会話をすることがない兄妹ですが、彼女があからさまに感情的な態度で接してくることは本当に珍しいことです。僕が恐る恐る扉をくぐると、玄関に立つ彼女がこちらに背を向けたまま、ようやく最初の一言を発しました。


「お兄様、お話があります」


 聖クレア女学園でマドンナと称される妹は、僕のことを『お兄様』と恭しく呼ぶのでした。いったいいつから呼ぶようになったのかは、はっきりとは覚えていませんが、おそらく両親が、幼き日の妹に礼節ある女性らしさなるものを教育し始めたころからだと思います。


 妹は一人、リビングへと移動してしまいました。彼女の話を聞かない理由はありませんから、僕は黙って彼女が待つリビングへと向かうことにしました。すでに明かりのつけられたリビングで、彼女は二つのグラスに、冷蔵庫から取り出した水を注いでいました。彼女はそれをトレーに並べ、超喫茶エウロパのイチゴさんも顔負けの所作で、テーブル席に座る僕に配膳してみせました。


 それから、妹は自分のグラスを机上に置き、僕の正面の席へと座りました。そのまま静かな時間は流れていき、話があると言っておきながら、彼女はまたしても口を開こうとしませんでした。


 そして、痺れを切らした僕が取り留めのない言葉を発しようとしたその時、妹は一言、僕に問いかけました。


「お兄様、わたくしに何か隠し事をしていませんか?」


 その瞬間、僕の背中には脂汗がじわりと滲み、一つの雫となって垂れていきました。僕はあくまで平静を装いながら、妹の真っすぐな目を見つめました……隠し事ならあります。僕は妹の私服を着て、偽りの女子として街を徘徊しました。それだけではありません。変装した僕は坊君に乙女と呼ばれるようになり、命懸けの逃走劇を繰り広げたことだってあるのです。


「……あの、僕は――」


 何かを話そうとした僕はとっさにその口を噤みました。妹は確信めいた視線で、僕の目を見据えていたのです。おそらく彼女は僕の秘密を知ってしまった……しかし、どのような方法で? この秘密は誰にも、坊君にさえ知られていない、僕だけの秘密だったはずです。


「…………」


 二人だけのリビングで、意味深な沈黙が僕を脅迫してきます。妹の疑念が僕の勘違いという可能性は残されていますが、心境としてはまさに万事休すといった具合です。


 両者、無言の探り合いの末、妹は、僕が言い逃れできない絶対的な証拠を突きつけました。それは、週末の月ノ下商店街で撮影された、女神様とウエディングドレスを着た僕のツーショット写真でした。


「ここに写っている彼女は……いいえ、『彼』は、お兄様ですか?」


 妹は、写真に写る偽りの僕を指差しました……言い訳のしようもありません。僕はグラスの水面に視線を落とし、黙って頷くしかありませんでした。


「……まさか乙女の正体がお兄様だったなんて」


 疑念が確信に変わり、妹は重々しい口調で驚きました。


「お兄様、全てをお話しください」


 そして、妹は僕に乙女に関する情報の開示を求めました。


 いつかはこのような日が来るかもしれないと、僕は覚悟を決めたつもりでいました。


 しかし、現実というものは、実に非情だと言わざるを得ません。ある日突然、何の前触れもなく平穏な日常を掻っ攫ってしまうのですから。


 僕はこれから起こり得る未確定な悲劇に強い恐怖を覚えながらも、目の前に座る妹に全ての事実を打ち明けました。彼女のセーラー服を着て街を徘徊したこと、坊君との出会い、月ノ下商店街で繰り広げられた決死の逃走劇――そして、身に覚えのない脅迫状の件……僕は乙女に関する全てを白日の下に晒しました。

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