第三章 偽・乙女恋戦鎮魂曲 その三
*
「ごきげんよう」
聖クレア女学園では常に礼節ある振る舞いが求められます。下校時にご学友の皆様と擦れ違う際は軽く会釈し、「ごきげんよう」と朗らかに挨拶を交わしましょう。
……別に、わたくしはご機嫌なんかじゃないけど。
中高一貫校の聖クレア女学園に通うわたくしは、気付いた時には周囲からマドンナという、まるで女学園の中ボスみたいなあだ名で呼ばれるようになった。なぜわたくしがマドンナと呼ばれるようになったのかは、先日、男装をしてラーメン屋の行列に並んでいる時に一人で考えてみたけど、その原因がわたくしの抑圧されてきた半生にあることは、店の出入口でニンニクマシマシの食券を買う前には結論付けられていた。
両親はかなり早い時期からわたくしを聖クレア女学園に入学させるつもりでいたらしく、当時、まだ幼かったわたくしは両親から独自の大和撫子的矯正術を施されるようになった。わたくしは両親の機嫌を損なわないように、これまで偽りの自分を演じ続けてきた。その反動なのか、わたくしは両親の意向とは真逆の趣味嗜好を求めるようになり、だけど、そんな男子小学生みたいな本性を隠すために誰よりも淑女らしさを模倣し続けた結果、今では女学園の生徒たちから模範生として一目置かれるようになってしまった。
理由はどうあれ、身近な人に尊敬されることは、別に嫌な気分にはならないし、こんなわたくしと仲良くしてくれる子もいたりして、今の学園生活はそれなりに充実しているわ。
だけど時々、彼女たちの前でいきなり特撮ヒーローの必殺技を叫んだら、いったいどんな顔をするのか、試してみたい衝動に駆られるけど。
「マドンナさん、もしよろしければ、この後、お茶でもご一緒しませんか?」
放課後、聖クレア女学園の正門を出たわたくしは、同じクラスの小枝さんに声をかけられた。彼女は中等部のころから親交があるわたくしの親しい友人だ。
「……今日は別の約束があって」
「そうですか。それは残念です」
わたくしが恭しく断ると、小枝さんは「ではまた、次の機会に」と笑顔を咲かせ、ごきげんようを風に乗せて、駅ビルとは別方向の路地を帰っていった。
「……小枝さん、ごめんなさい」
わたくしはそう呟くと、駅ビルへと続く路地裏を歩き始めた。
今日で三日目になる。工業高校の校舎の非常階段からM高校のグラウンドを狙うように、あの人の熱視線は注がれていた。わたくしは今日も電柱の陰から、そんな坊君の様子を窺うことにした。いったい彼は何を見つめているのだろう……まさか彼が捜している乙女がM高校に通っているとか? もういっそのこと、わたくしの秘密を打ち明けてみようかしら。ゲームセンターや温泉街でのあれこれが、全てわたくしとの間に起きた出来事だと知れば、少しは彼の気が引けるかもしれない……なんて。やっぱり今のわたくしには、そんな勇気はないみたい。
そもそも、好きな女子に乙女なんてあだ名を付ける坊君が、男子みたいな趣味を持つわたくしを受け入れてくれるはずがないのよ。
だけど、今はもう少しだけ、この場所から坊君のことを眺めていよう。どうせ彼は乙女のこと以外、まるで眼中にないのだから。
「――あの、すみません」
背後から伸びる人影。振り向くと、工業高校のブレザー服を着た、かっこいい女子生徒がそこに立っていた。
★
実習棟の非常階段に立つ兄貴を、電柱の陰から観察している女子がいる。それもかなり可愛い子だ。ウチがこの状況を目撃してから、もう十分近くはたっている。彼女の目的は分からないが、兄貴の醜態が世間に知られ始めていることだけは分かった。
……同じ高校に通うウチの身にもなってくれ。
M高校のグラウンドを見下ろす兄貴は当然、ウチの存在に気付かないわけだが、意外なことにセーラー服姿の女子生徒もまた、兄貴に視線を送るばかりで、路地に立つウチに気付く素振りを見せなかった。見たところ、彼女はかなり真剣な様子で兄貴のことを窺っていた。もしかすると、この街の生徒たちの間では、森林公園のバードウォッチングみたいに兄貴を観察することが流行っているのかもしれない。他人の趣味をとやかく言うつもりはないが、これ以上、家族の恥を晒すわけにもいかず、ウチは、あのクソ兄貴の所業を弁明するために、電柱の陰に隠れる彼女に声をかけることにした。
「あの、すみません」
彼女は真鍮のような瞳をさらに大きくして、驚愕の表情でウチの顔を見上げていた。「まさか自分が見つかるなんて」とでも言いたげな顔をしているが、彼女は、放課後に一人で電柱に貼り付いている女子生徒が注目されないとでも思っていたのだろうか。路地裏を行く生徒たちはみんな、あんたのことを横目で怪しんでいたぞ。
「……あの阿呆に興味があるんですか?」
ウチは単刀直入に聞いた。
「え? あ、阿呆ですか?」
彼女は目を丸くしたまま、ウチと非常階段に立つ兄貴を交互に見比べる。
「……あなたはいったい」
「ウチか? ……あー、そうだな」
ウチが兄貴の妹だということは絶対に知られたくない。
「ウチはそこの工業高校に通っている生徒だ」
結局、ウチは兄貴と無関係の人間を装い、校舎の塀を指差してみせた。
「工業高校の制服を着ていますから、そうだとは思いました……わたくしが聞きたいのは、その、あなたと坊君の関係です。彼を阿呆と呼んでいるということは、やはり二人は親しい間柄なのですか?」
「……まあ、それなりに」
「ぐ、具体的にはどのくらい親しい間柄なのですか? 例えば昼食をご一緒するとか」
「昼飯は、一緒には食わないですね。ウチは自分で弁当を作ってくるけど、兄……彼は専ら購買部の総菜パンで済ませているので」
「そうなのですか……てっきり坊君はお米の方が好きなのかと思っていました」
「本当は米の方が好きなんだと思いますよ。時々、母ちゃんに握り飯を作ってもらっているみたいですし。あいにく工業高校の購買部は総菜パンしか置いてないので……言ってくれれば、弁当くらいウチが詰めてやるんですけどね」
「そ、そそ、それはどういう意図でおっしゃっているのですか⁉」
「特に深い意味はないですけど」
「いいえ、あります! だって、特別な感情がなければ、誰かにお弁当を用意することなんて――」
「二人分と言っても、いつもよりちょっと多めに作ればいいだけですから」
ウチが答えると、彼女は悶々とした表情で押し黙ってしまった。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。
「……あなたが坊君の捜している『乙女』ではないですよね?」
彼女はウチの心中を探るように聞く。
「彼が乙女と呼ぶ人物は『形容し難いほどに美しい』のだそうです。わたくしの主観ですが、あなたの容姿はその条件を満たしていると思います」
「条件を満たして……」
「つまり、あなたはとても美人だということです」
「……ハハ、ないない。冗談で言われることはあるけど、男勝りなウチが美人だなんて――」
「で、では、わたくしが坊君と恋仲になってもよいのですね⁉」
……彼女は何か重大な誤解をしている。耳を真っ赤にして俯く彼女はまるで恋愛漫画に出てくるヒロインそのものだった。ウチなんかより彼女の方がよっぽど乙女だと思うぞ。目元なんか商店街で出会った本物とそっくりだし……ちょっと待て。
ウチはおもむろに鞄から手帳を取り出すと、そこに挟んでいた一枚の写真を凝視する。
「そっくりなんてもんじゃない……本物だ。ウチは本物の乙女を見つけてしまったのか⁉」
写真に写るウエディングドレス姿の乙女は髪型こそ違うが、目の前に立つ彼女とまさに瓜二つだった。
「何を驚いているのですか?」
ボブヘアの似合う彼女は小さく首をかしげてみせた。
「あなたが乙女なんですね⁉」
ウチは彼女の両肩を掴み、ぐいと顔を近づけた。
「ち、違いますけど……」
「じゃあ何でこんな場所に立っていたんですか⁉ やっぱり彼のことが気になるからじゃないんですか⁉」
「わ、わたくしは偶然ここに立っていただけで、別に彼のことが気になるとか、こ、恋をしているとか、そんなことはなくて――」
「先日、月ノ下商店街でウチと会いましたよね⁉ あなたはウエディングドレスを着て、彼に追い回されていた……そうでしょ⁉」
「あ、あなたが坊君のご友人だということは十分に理解しました……ですから、これ以上、顔を近づけないでもらえますか?」
「……す、すまない。つい興奮してしまった」
ウチは彼女の両肩から手を離すと、小さく咳払いをしてみせた。
「申し訳ないのですが、やはりわたくしはあなたと一度もお会いしたことがありませんし、坊君が捜している乙女でもありません。わたくしは彼に認知すらされていないのですから」
彼女はそう答えると、非常階段に立つ兄貴の方を見上げた。
「……彼のことが好きなんですか?」
「…………」
ウチが聞くと、彼女は耳を真っ赤にして俯いてしまった。
「よければ、もう少し二人で話をしませんか? 幼馴染の実家が喫茶店を経営していて……立ち話もなんですから」
「……喫茶店ですか」
「善は急げということで、早速向かいましょう――彼の恋煩いを治すために!」
兄貴は変わらずM高校のグラウンドを監視している。ウチは、不安げな彼女の手を取り、超喫茶エウロパがある月ノ下商店街の方面へと歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます