第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その十
――翌日の放課後、俺は図書館棟の裏手でブロから秘密の合言葉を教わった。その内容は何ともふざけたものだったが……仕方がない。これも愛しの乙女のためだ。
例の銭湯が混浴風呂を開放するのは、決まって毎週金曜日だそうだ。
そして、ブロから合言葉を教わった今日こそがその金曜日だった。彼と別れた俺はそのまま三年電気科の同輩たちを引き連れ、この街の北東方面に位置する温泉街へと向かった。三年電気科の生徒数は俺を含め、全員で四十人だ。例の銭湯を目指すのは、ブロと、彼岸に到達していそうなホトケを除く三十八人。口にはしないが、皆一様に破廉恥極まりない希望で胸を膨らませているに違いなく、「風呂に入るなら汗を掻かねば」と温泉街行きの路面電車は利用せず、鼻の下を伸ばして片道四十分の行軍を敢行していた。
ここで一つ弁明しておこう。俺は、この阿呆な同輩たちとは違う。俺は愛しの乙女との再会を果たすために温泉街へと向かっているのだ。決して彼女との混浴に淡い期待や、あろうことか、自分の背中を流してもらおうなどという不埒な期待は抱いていない。
……俺が、垂れてきた鼻血をブレザーの袖で拭ったころ、目的地の温泉街はすぐそばまで迫っていた。昨日、いつものように街中で乙女を捜索していた俺は、偶然にもゲームセンターで出会ったメメを銭湯に誘っていた。彼も一人の男だからな。混浴風呂に入ることはきっと良い経験になるだろう。
「おーい、メメ!」
からくり時計の下で佇んでいたメメは俺の方へと振り向き、そして、目を丸くして困惑の表情を浮かべた……そういえば、阿呆な同輩たちがいることを伝え忘れていたか。
「メメ、待ったか」
俺は聞いた。
「……イエ、ゼンゼン」
メメはからくり時計を背に七十六の瞳に見つめられながら戦々恐々と答えた。
「紹介しよう。M高校三年のメメだ。こう見えて、彼はなかなか男気のある青年だ」
俺が言うと、同輩たちは一斉に「「よろしくううううう‼」」と叫んだ。うむ、元気が良くて大変よろしい。
「……あの、今日は坊君と二人きりだと思っていたんだけど」
メメは不安げな声色で聞いた。
「すまない。同伴者がいることを伝え忘れていた。彼らは皆、例の銭湯に興味がある奴らなのだ」
「……銭湯?」
メメは首をかしげた。
「そうだ。心配せずとも、秘密の合言葉はブロから教えてもらった。まあ、本当に存在するのかは半信半疑だが」
「……はあ、合言葉」
「では早速、目的の場所へと向かおう」
俺はそう言うと、温泉街のアーケード入口を指差し、例の銭湯への行軍を再開した。平日の夕方ということもあり、観光客はまばらに出歩いている程度だった。メメと合流した俺たちは土産屋が建ち並ぶ古風な商店街の緩やかな坂路を上っていく。
そして、歩くこと数分、ようやく俺たちは目的の銭湯に辿り着いた。超喫茶エウロパで見たチラシの通り、新装開店したばかりの銭湯は、往年の煙突が伸びた木造建築ではなく、アーケードに隠れて全容こそ確認できないものの、出入口に自動ドアが設けられた数階建てのビルディングだった。
しばらくの間、皆でその入口の看板を見上げていたが、いつまでも呆けているわけにはいかず、正面を見据えた俺はようやく一歩を踏み出した。入口の自動ドアは混浴風呂を目指す不埒な俺たちにも平等に開かれた。ビジネスホテルのような外観とは異なり、その内観はまさに銭湯そのものだった。木造建築を模した空間、入口の左手には番頭台があり、正面には男湯と女湯の暖簾がそれぞれ下げられている。
「――いらっしゃい」
俺たちが入口でたむろしているのを見かねたのか、番頭台に立つ男が声をかけてきた。
癖の強いその番頭は女のような口調で聞く。
「みんな高校生? やけに大勢で来たわねえ」
ブロいわく、秘密の合言葉は番頭に伝えることが条件らしい。俺は後方に控える同輩たちに「手拍子始め!」と叫び、合言葉を唱える体勢に入る。
「イッチョメ、ニチョーメ、サンチョーメ! ぐるっと回ってヨンチョーメ‼」
俺はその場で一回転した後、右手の人差し指を天へと突き出した。
「「フォーウ‼」」
そして、同輩たちの掛け声を合図に手拍子がやんだ。メメは突然のことに驚いたのか、ぽかんと口を開けて俺を見上げていた。
「ほう……あんたたち、いい度胸だね」
番頭は一変して睨みを利かせ、まるで品定めでもするように俺たちを眺め回した。
そして、ようやく番頭の表情が和らぐと、彼は俺たちに告げる。
「いいだろう。あんたたちを特別な浴場へと案内しようじゃないか」
番頭は、天井からするりと降りてきた一本のロープをぐいっと引き下ろした。番頭台のそばにある壁面が両開きの自動ドアのように開け放たれる。彼はこれ以上、言葉を発することはなかった。
特別な浴場とはつまり、混浴風呂のことに違いない……愛しの乙女はこの先にいる。
「お前ら、行くぞ」
俺はそう声をかけ、先陣を切った。
「「オオオオオ‼」」
怒号にも似た、同輩たちの喊声が続く。外観では分からなかったが、どうやらこの建物は高層ビルに匹敵する高さを有しているらしい。一階の隠し扉をくぐると、そこには一つの螺旋階段があった。俺たちは勇み足でその階段を駆け上がっていたが、目的の最上階は雲を掴むほど遠くにあり、これでは風呂に入りに来たのか、運動で汗を掻きに来たのか分からない始末だ。
地獄の底から蜘蛛の糸を辿るときは、意外にも余計なことは考えないのかもしれない。皆の息も絶え絶えになったころ、ついに螺旋階段は終点を迎え、俺たちはようやく目的の階層に辿り着いた。目前の引き戸の隙間からは白い明かりがこぼれており、男女の区分けを示すはずの暖簾には『男女』の文字が踊っている。俺はその隙間からこっそりと中の様子を確認した。
そこは紛れもなく銭湯の脱衣所だった……仮に裸の女人が辺りをうろついていたらと気を揉んでいたが、幸か不幸か、脱衣所には誰もいなかった。黒のマッサージチェア、左右に首を振る壁掛けの扇風機、ガラス扉の冷蔵庫と、その中に並べられた牛乳瓶――無人だからだろうか。まるで舞台のセットのようなその空間には、どこか無機質な気味の悪さがあった。
しかし、そんな危惧の念がわが同輩たちに理解されるはずもなく、彼らはようやく辿り着いた脱衣所に入るや否や、まだ真新しい室内の至る所で飛んだり跳ねたり、はたまた奇声を上げたりしてはしゃぎ回っていた。目的が妙齢の女性ならば、もっと自らの立ち居振る舞いに気を付けるべきではないだろうか。いや、そもそもブレザー姿の生徒風情が混浴など驕っているのかもしれない。
無用な指摘ばかりが頭の中を飛来していた時、同輩の一人がようやく人間らしい台詞を吐いた。
「おい、何だこれは⁉」
何だと言われても、それはどう見ても立札だろう。
しかし、言われてみれば奇妙だ。時代劇で平民が興味津々と覗き込んでいそうな木製の立札は、なぜか銭湯の床から一本生えていた。
「えー、何々」
第一発見者の同輩はそのまま立札に書かれた文言を唱え始めた。
混浴を楽しむための定
一、身体測定をしましょう
同輩が読み終えると、脱衣所にドッと歓声が沸き起こった。立札のそばには一台の身長計付き体重計が置かれている。明確な指示はないが、おそらく混浴を望む者はすべからくこの体重計に乗れということなのだろう。
「まずはあっしがいくでごわす」
先陣を切ったのは、相撲部で副将を務めるコムスビだった。坊主頭で糸目の彼は、情報電子科三年のクマに匹敵する体格を有し、その全身は一人の相撲取りとしては十分過ぎるほどの分厚い脂肪を纏っていた。彼が乗った体重計は苦しそうに音を立てて軋んだ。背面の柱に沿って背筋を伸ばし、頭上の測りを下ろすこと数秒――脱衣所にアナウンスが鳴る。
『体重計を降り、足元にある目印の上でお待ちください』
それは女性の機械音声だった。
コムスビはのっそりと体重計を降りた。床には四角くテープが貼られてあり、その中心には足跡の目印が描かれていた。
「ここでごわすね」
コムスビはそう言うと、指定された位置で行儀よく直立してみせた。少しして、例の機械音声がアナウンスする。
『適正体重ではありません』
「あっしは相撲取りでごわす! ただのデブと一緒にするなでごわす‼」
コムスビは体型いじりに対し、過剰なまでに反応する質だった。彼は天井に向かって叫び――そして、コムスビは忽然とその姿を消してしまった。彼が立っていたはずの床はまるで観音扉のように真っ二つに割れ、悲鳴とともに無慈悲にも落下していく。
……同輩たちが沈黙するために、教諭の拍手が必須というわけではないらしい。奈落の穴にコムスビが落ちた後、脱衣所では扇風機のプロペラ音のみがかすかに唸りを上げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます