第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲 その十八
「「ああああああああああああああああああああ‼」」
俺たちは、決しておじけづいたわけではない。この悲鳴は条件反射だ。武者震いだ。運命を切り開くためには腹の底から叫ばなければならない時がある。俺たち二人にとっては今がその時なのだ。
俺は愛しの乙女のために。幸子姉さんは愛しの優さんのために。
愛する者のために。俺たちは勇気を持って、この瞬間に挑戦しているのだ。
例えばふとした拍子に転びそうになった時、目前に障害物が飛来してきた時、身の危険を感じると体感時間が遅くなるという現象を誰でも一度くらいは体験したことがあるのではないだろうか。宙を駆ける俺たちは今まさにそのような不思議な現象を体験していた。眼下の道では車両が行き交い、親に手を引かれる子供は俺たちを指差して笑っている。すぐそばで羽ばたく鳩の群れは、手を伸ばせば頭くらいは撫でてやれそうだ。俺の両脚は依然としてペダルを漕ぎ続け、自転車は式場を目指して宙を前進している。
そんな人体の神秘は二人の会話すら可能にしてしまった。
「あ、あああ、あなた、飛んだのはいいけど、着地する方法はちゃんと考えているんでしょうね?」
幸子姉さんは聞いた。
「案ずるな、姉さん」
俺は諭すように答える。
「宇宙空間じゃあるまいし、俺たちも延々と宙を飛び続けることはできまい」
「それって、つまり――」
「いずれは地上に降り立つというわけだ」
「それ、着地じゃなくて、落下しているだけですからああああああああああ‼」
「「――ああああああああああああああああああああ‼」」
驚くなかれ。俺たちが「「あああああ‼」」と叫んでいる間、実は少しだけ会話をしていたのだ。
それから、作戦の件については……皆まで言うな。俺だって分かっているのだ。着地の算段がないことくらい。
二人を乗せた自転車は弧を描くように宙を駆け、ついに俺たちは式場の鉄柵を越えることに成功した。
しかし、車体は著しい前傾姿勢となり、ハンドルを握る俺の両手を除き、二人の体は完全に自転車と分離してしまった。
結果、俺たちは、ふさふさと葉っぱを茂らせた縦長の常緑樹に頭から突っ込んだ。がに股になった二人の下半身は常緑樹から逆さまに飛び出し、まるでエキセントリックなクリスマスツリーのように装飾された樹は建物の傍らに生えていた。
「……こ、ここ、殺す気かあああああ‼」
自力で体を引き抜いた幸子姉さんは全身を枝葉まみれにして叫んだ。
「ところがどっこい生きている」
同じく、常緑樹から体を引き抜いた俺は言った。傍らでは原型をなくした自転車がカラカラと車輪を回して泣いている……俺と妹の関係は何とかならないかもしれない。
「……行こう、姉さん。二人が結婚してしまう前に」
俺は言った。
「……そうね」
幸子姉さんは頷く。
「優さん、待っていてね。私、今行くから」
俺たちは周囲に式場の関係者がいないことを確認しながら、忍び足で建物の外壁を辿り――そして、ついにその入場口らしき両開き扉の前に立った。
俺は渾身の力でその扉を開け放った。
「好きだあああああ‼」
そして、俺は渾身の力で叫んだ。愛しの乙女は祭壇の前で新郎の優さんと思われる男に抱かれていた。
「き、君は⁉」
優さんは聞いた。
「初めまして、優さん。いつも幸子姉さんがお世話になっています。俺はあんたが抱いている乙女と結婚する男じゃあああああ‼」
われながら自分の情緒不安定ぶりに頭を抱えるが、こういうのは気持ちが肝心なのだ。礼節を重んじつつ言いたいことを言おうとしたら、こういう返事になってしまった。
「優さん!」
幸子姉さんは叫ぶ。
「誰よ、その女! もしかして私以外の女と結婚するつもり⁉」
「ち、違う! 幸子さん、誤解だ‼」
優さんは答える。
「直前まで彼女が君でないことに気付かなかったんだ。それに彼女、今は気を失っていて……僕は介抱しているだけだ。決して彼女を抱き寄せて誓いのキスをしようとか、そんなやましいことは考えてない!」
優さんはそう言うと、抱えていた乙女を、そばに立つ神父らしき男に受け渡した。
「……僕からも一つ、言いたいことがある」
優さんは聞く。
「なぜ君は時刻通りに式場に来なかったんだ?」
「それは……ね、寝坊したのよ」
「……僕も昨日は急な仕事が入って、一緒にいてあげられなかったことは申し訳ないと思っている。だけど、君にとって、僕たちの結婚式は寝坊するくらいどうでもいいことだったのかい?」
「ち、違う! 優さん、誤解だわ‼」
幸子姉さんは答える。
「確かに、こんな大切な日に寝坊してしまったことは事実だけど……これはあなたとの結婚式が楽しみで夜も眠れなかったの! 私は優さんのことが大好きなの! だから決して、二人の結婚式を台無しにしようとか、そんなことは考えてないの‼」
幸子姉さんは涙声で叫んでいたが、とうとう大人げなくワンワンと泣き始める。
「私は優さんが大好きなの! 優さんじゃないと嫌なの! ほかの女と結婚なんかしちゃヤダアアアアア‼」
そこに、かつて見た大人びた幸子姉さんの姿はなかった。彼女はまるで駄々をこねる子供のように思いの丈を泣き叫んでいた。
……軽蔑するだろうか。みっともないと後ろ指を差すだろうか。仮にそんな奴がいるならば、俺の前に出てくるがいい。本気で生きている奴らを代表して、俺が鉄槌を下してやろう。
どれだけ稚拙で、惨めで、みっともなくても、幸子姉さんが放つ言葉はその全てが本気だった。
「……幸子さん」
優さんは静かに話し始める。
「僕も、君じゃなきゃ駄目だと思っているよ。飾らない、本当の言葉を話す君に、僕は心底惚れているのだから」
そして、祭壇を降りた優さんはゆっくりと幸子姉さんの方へと歩き始め――建物の入口で泣き崩れる幸子姉さんの頭に優しく手を乗せた。
「ずいぶんと無茶をしたようだね。全身葉っぱまみれじゃないか」
優さんはそう言うと、幸子姉さんの体に付いた枝葉を払いのける。
「本当はこれから君を迎えに行くつもりだったんだよ?」
「あ、ありがとう、優さ――」
会話は途切れ、二人の唇は優しく重なり合った。
「二人とも、永遠の愛を誓いますか?」
いつの間にか二人のそばに立っていた神父が聞いた――無論、その答えは一つだ。
「「はい、誓います」」
式場は割れんばかりの拍手に包まれた。優さんと幸子姉さん、互いの不安は初めから杞憂だったらしい。俺もまた、本当の幸せを掴み取った二人に惜しみない拍手を送った。誰かの幸せを祝うことがこんなにも素晴らしいことだったとは知らなかった。紆余曲折あったが、終わり良ければ
「――あ、ドロボーの兄ちゃん!」
……後方からタカシ少年の声がした。
ちなみに、俺はまだ振り返っていない。
しかし、生意気な声の主がタカシ少年ということだけははっきりと分かった。
そして、そこに立っているのがタカシ少年ではなく、タカシ少年たちということもまた、俺の動物としての本能が察知していた。
「タイホオオオオオ‼」
警官は警棒を振り上げながら叫んだ。
その瞬間、商店街で俺を追いかけていた連中が一斉に建物の中へとなだれ込んできた。俺はその波に揉みくちゃにされ――そこで俺の意識は飛んでしまったらしい。目を覚ました時、辺りは夕焼けに染まっていた。ボロボロになった俺は式場の外に捨て置かれ、ハンチング帽を被ったメメが俺の顔を覗き込んでいた。
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