冷えた朝に、ドライブ
辰井圭斗
――
人と一緒に寝ていると夜中に同じタイミングで目が覚めることがある。ああ、相手も目を覚ましたなと朧気に思っていると、彼は身を起こして私の上に乗って、私の首に両手をかけた。
スッと醒めた。暗闇の中、私はシルエットだけの彼がどうするか見ている。
私は彼が私の首を絞めることができないのを知っている。彼が私の首を絞めることができないと、彼自身も知っているということを知っている。
だから、どうするか見ている。
「なんで怒らないんですか」
いっそ穏やかに、敢えて穏やかに低い彼の声。「私はこういう時怒れないんだよ」と答える。闇の中、彼の声にならない声が潰れた。首には彼の両手がかかったままだ。
怒ってあげれば、彼は楽になれただろう。狼狽してその手を振りほどいてみせれば、彼は楽になれただろう。そうして、ありきたりに壊れてみせた日常をありきたりに捨てて次に進むことができたのだ。私と彼は腐れた思い出の欠片になれる。
――私がそうしないのは、結局のところ私が彼に期待しているからだった。彼なら私と生きてくれるだろうと思うからだった。より正確に言えば、私が見ている寂しい景色を、彼も見てくれると見込んでいるからだ。
今首を絞めているのは私の方だ。
やがて手が緩んで、彼の上体が私に崩れ落ちて、私の耳元に彼の口元が来た時「殺してください」と掠れた声で言われた。
「……海が見たい」
私が返したのはそんな言葉だった。
空はようやく白んで、駐輪場に生えた草がそよいでいるのが見えた。ささやかに咲く名前の分からない薄いピンクの花が可憐を含んで夜明け前の空気に揺れている。七月なのに辺りはまだ冷たかった。これがうだるような暑さであったならば。私たちの行く先をはっきりと拒んでいてくれたなら、まだしも。
彼がくすんだ銀色の自転車を引き出してきて、後ろの荷台に乗るよう促した。私は横向きに座って彼のお腹あたりに軽く手を回して掴まる。ク、と息を呑みこんで、彼はペダルを踏み込んだ。
自転車が夏の湿った空気をかきわけて進んで行く。あまりに軽い水分子の川に街が沈んでいるような感覚さえ持たせて、風が後ろに流れていく。住宅街を抜け、眠る踏切を越え、また住宅街を抜け、海はあの坂の向こうだ。
海に行ってどうするというのだろう。
私たちは。
一緒の家に暮らして、けれど、恋人という関係ではなかった。あなたのことを愛していますと言われて、私も愛していると言って、ただその愛の意味合いが重なることはなかった。それを二人とも知って、それでも暮らし続けた。
何から間違っていたのかと問われれば、あなたを支えさせてくださいと言われて、その手を取ったあの日から間違っていたと言うしかない。ボタンの掛け違いは決して直らなかったのだから。
上り坂に差し掛かって腰を浮かせペダルをこぐ彼の身体が汗ばんでいる。触れたところから伝わる体温が私のものとは異なって、息を漏らしながら彼は二人分の体重を坂の上に向けて運んでいく。
東の空でもう太陽が出ようとしている。雲がほの赤く輪郭をつけて浮き上がって、私はある詩を思い出した。小林秀雄が中原中也の死に際して贈った詩。あれは夕暮れの光景だったけれども。
ああ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば
最後の一節、口の中でひそかに転がして、私は前を見る。もうすぐ坂を上りきる。不意に世界が輝いた。彼の背中の向こう、零れ走る今日最初の光線を波間にきらめかせて。
海。
冷えた朝に、ドライブ 辰井圭斗 @TatsuiKeito
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