第6話 自殺反対説

 今度の、

「犯人と思しき久保という男が、自殺をした」

 ということに疑問を呈し、必死になって訴えているのだが、悲しいかな、

「今の時点では、自殺ではないということを立証するだけの証拠がまったくの皆無ということで、遠吠え」

 ということにしかなっていないのだ。

 もちろん、自殺だという根拠もないわけなので、どちらの捜査も行われるわけだが、どうしても、若いからの血気にはやるということなのか、秋元刑事は納得がいっていないようだった。

 そんな中で、樋口刑事が、一つの突破口になるかも知れないことを仕入れてきた、

 それを、捜査会議において、

「鑑識の見解」

 ということでの話になったのだが、

「自殺か自殺ではないかということへの言及まではいきませんが、現場検証をしていて、少し気になるところがありました」

 というのだ。

 鑑識は、その話を、あくまでも、自殺か他殺に言及しないように徹した、

 あくまでも、鑑識というのは、事実を究明するだけで、そこから捜査への推理は、刑事たちの捜査ということになるからだ、

「警察というのは、分業制で、相手の縄張りに入りこんではいけない」

 という縄張り意識はしっかりしているのかも知れない。

 しかし、いくら、

「縄張り意識が捜査の足かせになる」

 といっても、組織で動いているものの、

「組織捜査」

 というものを頭から否定してしまうと、

「ろくなことにはならない」

 というのも分かっているので、そのあたりの線引きは、難しいところである。

 鑑識が言い出したことととして、

「自殺をした人が、まず、仰向けになって死んでいるというのが、少し気になったんですよね」

 ということであった。

 それに関しては、皆、少しは感じていることであったが、そこに言及しなかったのは、やはり、

「自殺に間違いない」

 という考えが大きく、それを口にすることをためらったからであった。

「確かにそれは言えるだろうが、だが、自殺をする人が仰向けで死んだということがなかったんだろうか?」

 という、

 確かにそれはないとはいえないでしょうが、あくまでも可能性ということで考えるとですね、あの形で落ちたということは、少なくとも、ビルの屋上から足が離れた時は、落ちる方向から反対を向いていたということになりますよね。自殺をする人が、後ろ向きに飛び込むという精神状態にはならないと思うんですよ、それを思えば、まわりを数人に囲まれて、あの場所に追い詰められたことで、足を踏みはずしたと考える方が、可能性としては。圧倒的に高いですよね」

 というのであった。 

 これも、刑事であれば考えることであったが、それでも、自殺と考えてしまったのは、

「まわりが、自殺だということで捜査が行われている」

 ということの情報操作からではないか?

 と考えられるのであった。

 捜査には、確かに、情報操作というものが、見えない力になることがある、

 そうさせるのが、状況証拠というもので、今回も、

「彼が犯人で、逃れられないと思った」

 あるいは、

「罪の呵責にさいなまれた」

 ということから、

「状況証拠」

 としては、

「自殺以外いは考えられない」

 ということであった。

 ただ、

「自殺に疑問を持っている」

 という意見である。樋口刑事も、秋元刑事も、

「久保が暴行犯である」

 ということに変わりはなかった。

 それは、もちろん、他の捜査員と同じ考えであろう。

 しかし、

「自分たち二人だけが、自殺に疑問を持っている」

 ということで、樋口刑事の考えとしては、

「俺たち二人は、皆と同じように、暴行犯が久保であるということに変わりはないのだが、自殺に関しては完全に意見が分かれる」

 と思っている。

 ということは、

「久保の暴行ということには変わりはないのだが、そこに、何か他の人と別の考えがあるのではないか?」

 ということであった。

 樋口刑事は、少し考えがまとまってきたのだが、それは、

「事件がこれでは終わりではない」

 ということだ。

 それは、ここまでの事件経過という意味だけでなく、

「連続暴行事件が、被疑者死亡で終わってしまう」

 というのが、納得いかないと思っているのだ。

 きっと、そこまでハッキリとした確証を得ているわけではないのだろうが、秋元刑事も、自殺に対して、猛反対するというのは、その恐れを、

「彼なりに感じている」

 と思っているからだろう。

 これは。

「もし、これが自殺ではないということになると、どうなるか?」

 と考えると、

「事故か、事件か?」

 ということになる、

 まさか、事故であれば、いくら犯人で、精神が錯乱しているからといって、あのような不自然な死に方はしないだろう。

 しかも、完全に、仰向けになっているということは、

「後ろ向きに飛び降りた」

 ということになり、

「自殺でないとなると、それこそ、事故の可能性はもっとない」

 ということである。

 そうなると、

「殺人?」

 ということになるわけで、しかも、真後ろということは、

「まわりを囲まれた」

 と考えるのが自然である。

 相手が一人であれば、他の方向に逃げることもできるわけで、

「端に追い込まれた」

 というわけではなく、完全に、ビルの四方の角とは、遠い、一方の線の中心部分から飛び降りていることになるからだった。

 そう考えるなら、

「数人に追い込まれて飛び降りるしかなかった」

 ということで、これが殺人ということであれば、

「追い詰めるだけで十分だった」

 ということになる。

 そうなると、

「犯人は複数」

 ということになる。

 元々、彼を殺す必要があるとすれば、

「犯人を彼に押し付けて、自分は、蚊帳の外にいる」

 という人であろう。

 それが、

「共犯なのかどうか分からない」

 もし、これが、

「単独の婦女暴行事件」

 ということであれば、

「共犯」

 ということもあるかも知れないが、これが、

「連続暴行魔」

 ということであれば、

「共犯」

 というのは考えにくい。

 あくまでも、このような事件は

「異常性癖」

 であったり、

「精神疾患者が犯人だ」

 ということになり、

 犯人側とすれば、

「猟奇犯罪を、同じ連中とは行いたくない」

 という思いから、

「連続班ということであれば、まず、共犯というのは考えられないだろう」

 ということであった。

 そこまでくると、

「待てよ」

 と樋口刑事は考えた。

「まさか、久保が暴行犯ではないという可能性も、まったくないわけでもない」

 とも思えてきた。

 ある程度まで、事件の骨組みを考えていたが、

「もう一度最初から考え直そう」

 と思った。

 しかし、その中でも同じ考えにいたるのは、どうしても、久保が死んだ状況と、連続暴行事件において、

「共犯は考えられない」

 ということからの、矛盾が残るわけで、これを解決しようとするならば、

「本当に、久保が連続暴行魔なのだろうか?」

 という疑問は、

「もし、違ったとしても、推理の最後まで、残ることになるだろう」

 ということであった。

「久保が犯人でないとすれば事件は、振り出しに戻る」

 というわけで、

「事件には、まったく違った側面も存在する」

 ともいえるだろう。

 実際にその考えを持っていたのは、秋元刑事で、彼は彼なりに、推理の中で、樋口刑事よりも先に、

「久保は本当に連続暴行魔なのだろうか?」

 と感じているようだった。

「人と同じでは嫌だ」

 という考えを持っている秋元刑事としては、その考えを、最後まで明かすことはないだろうということは、

「K警察」

 の面々であれば分かるだろうが、ここは、

「F警察に設けられた捜査本部」

 他の人に分かるということはなかったのだ。

 それを考えると、

「久保容疑者の自殺かどうか?」

 ということに端を発し、事件は少し怪しいところに入ってきたのかも知れない。

 樋口刑事の懸念は、

「共犯者がいる」

 ということであれば、考え方は二つである。

「久保にすべての責任を押し付けて、自分たちはこのまま鳴りを潜めるか、場所をまったく関係のないところに移して犯行を続けるか?」

 あるいは、

「久保が死んでくれたことで、今度の犯行からは、前とは関係ない」

 つまり、

「模倣犯」

 と思わせる形で、事件をこのまま進めていくか?

 ということである、

 ただ、もう一つ考えたのは、

「連続暴行自体が、何かの犯罪のカモフラージュではないか?」:

 ということであるが、そんな

「探偵小説」

 のような話を、捜査本部が間に受けて、捜査をするはずがないということであった。

 実際に、

「共犯者がいないか?」

 ということも、頭の片隅に置いた形で、久保の身辺捜査が行われた。

 それはあくまでも、捜査本部として、

「形式的な捜査」

 ということで、あくまでも、

「連続暴行は、久保の犯罪であり、罪の呵責に苛まれたということで、自殺を強行して、死んでしまった」

 として、

「被疑者死亡」

 ということで、事件を解決させたいという、

「いかにも、警察上層部の考えに従うかのように、進んでいる」

 と考えると、

「もし、そこにウラがあるとすれば、許せない」

 というのが、樋口刑事と、桜井警部補の考えであった。

 もちろん、事件には

「管理官」

 という人がいて、その人が、

「警察組織を絵に描いたような人だ」

 ということで、なかなかうまく捜査本部が一枚岩にならないところがネックだったのだ。

 今までにも、この管理官に、

「煮え湯を飲まされたことが何ともあった」

 だが、逆に、

「桜井警部補と門倉警部が、一矢を報いた」

 ということも何度かあり、今のところ、

「痛み分け」

 と言ったところであろうか。

 だから、いつも、

「捜査本部は、犯人以外とも戦っている」

 ということになるわけで、それも、

「自分たちの宿命みたいなものだ」 

 ということで、苦笑いをしないといけないくらいになっているのであった。

 実際に、

「自殺反対説」

 というものを、唱えた二人の刑事は、それぞれに、

「紆余曲折を繰り返しながら、新たな真実に向かっている」

 といってもよく、

「ただ、そのための証拠のようなものがなかなか見つからない」

 ということがネックになっているということだった。

 ただ気になることとして、

「どうやらこの事件は、状況証拠だけを普通に事実として判断していれば、簡単には解決しないような気がする」

 ということであった。

 今までの事件にも、そう感じることがあり、それが、

「タイミング」

 であったり、

「順不同」

 ということから、別の方向にいくことがあったということだ。

 つまりは、

「物的証拠の積み重ねというものが、状況証拠にはならない」

 という場合があるということであり、

 それを考えていくと、

「マイナス×マイナスがプラスになる」

 という発想に近いものがあると考えるのであった。

 というのは、

「警察の捜査として二つが考えられ、その事件によって、状況証拠を考えて、物証を探していくというものと、物証が見つかったことで、推理が組み立てられる」

 ということである。

 もちろん、最初から物証が簡単に見つかれば、そこから状況証拠が真実として生まれてくるわけだ。だから、この場合の方が、状況証拠には、真実としての信憑性があるわけで、

「事実というものの積み重ねが、真実になる」

 ということになるだろう。

  逆に、状況証拠からの物証であれば、物証が事実ということになり、

「事実の裏付けが真実」

 ということになる。

 そのどちらも、事実であっても、真実であっても、結果的に見えることと、そのプロセスの違いというわけで、同じになるのが当たり前だといえるだろうが、そこに作為というものが加われば、

「犯罪というものは見る角度によって、屈折しているプリズムのように、別の見方が出てくる」

 ということになるだろう。

 それを考えると、

「事実は一つしかないが、真実は一つではない」

 と言われることの理屈が分かってくるというものだ。

「真実」

 と

「事実」

 の違いということになるのではないだろうか?

 今回の事件に対して、実際に調査をしてみると、

「被害者に共通てがある」

 というわけでもなく、

「犯人をプロファイルしてみた」

 ということであっても、どうも要領を得ない。

 もっと言えば、

「犯人と目されている、自殺をした久保という男も、どういう性格なのか、聞き込みをしても、何ら出てくるわけでもなかった」

 さらに、異常性癖ということから考えて、一応、

「生活安全課に問い合わせをしてみたが、別にストーカーとして認知されているわけでもない」

 ということであった。

 それを考えると、

「今回の事件において、久保が犯人だというのはあくまでも、状況証拠」

 ということであり、しかも、その状況証拠も、決め手があるわけではない。

「動かぬ証拠」

 というものでなければ、立件することは難しいだろうが、これが、

「被疑者死亡」

 ということであれば、裁判になるわけではなく、普通に書類送検に近い形で処理されるだろう。

「じゃあ、彼の遺族は何も言っていないのか?」

 ということであったが、何も言っていないという。

 もっとも調べてみると、彼の両親は彼が中学生の頃、交通事故で亡くなっていて、それ以降は、

「親せきをたらいまわし」

 という、

「絵に描いたような不幸な人生だった」

 ことだろう。

「児童の頃でなくてよかった」

 という人もいるかも知れないが、それは間違いで、

「肉親が死んだ」

 しかも、

「両親ともに」

 ということであれば、相当辛いことだろう。

 しかも、年齢的には、

「思春期真っただ中」

 ということで、精神的には、かなり痛手だっただろう。

 それに輪をかけて、

「学校でいじめの対象になっていた」

 ということで、中学を卒業してから、失踪したというのだから、

「相当な目に遭った」

 ということである。

 しかも、

「たらいまわしにしていた親戚から、捜索願すら出ていない」

 ということで、下手をすれば、

「いい厄介払いだった」

 といってもいいだろう。

 近所の人の話では、

「引き取られた家に、子供がいるところなど、あからさまな自分の子供への贔屓があり。そのせいで、久保が、どんなにひどい目に遭っていたか」

 ということは、

「想像を絶する」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「失踪する気持ちも分かる」

 というもので、これでは、

「虐待と甲乙つけがたい」

 といってもいいだろう。

「そうなってしまうまでに、どうにかならないか?」

 ということで、

「児童相談所」

 であったり、自治体や学校などがやり玉にあがるのだろうが、そんな人たちをいまさらせめて、どうなるというのだ。

 責任の所在ということであれば、たぶん、

「彼にかかわったすべての人たちが、その責任を負わなければいけない」

 ということになるだろう。

 とはいえ、まずは、

「今回の事件が、本当に久保の引き起こしたことなのか?」

 ということであり、捜査員ほぼ全員が、

「彼が暴行事件の犯人に違いない」

 といっているのは、

「彼の半生が物語っている」

 ということであり、それこそ、

「状況証拠にすらならない」

 といってもいいことである。

 だから、

「事実というわけではなく、真実かどうか、事実が判明していないだけに、何ともいえない」

 といえるだろう。

 そうなると、

「すべてが、根拠のないこと」

 ということになり、他の捜査員が考えている犯人像には、

「事実無根」

 ということになるのだろう。

 ただ、実際に、

「何が事実なのか?」

 ということを突き止めようとしても、彼自身が、

「世間に背を向けて生きている」

 ということなので、知っているとすれば、

「彼が今までどこにいたのか?」

 ということから見るしかない。

 実際に、学校にいっていたという記録はないので、考えられることとすれば、

「底かの組織に入っていた」

 あるいは、

「おかしな連中とつるんでいた」

 ということであることを考えて、

「少年課」

 であったり、

「暴力団関係組織を捜査する人たち」

 に照会を掛けてみると、

「暴力団関係の組織」

 でヒットした。

 少年課のデータとすれば、かなり前であれば出てきたことから、

「おそらくは、判で押したような、転落人生を歩んでいた」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「彼も、ある意味、社会の被害者なのかも知れない」

 と、若干ではあるが、気の毒に思えてきたのである。

 しかも、最後には、

「自殺めいた不可思議な行動」

 を起こし、さらに、

「連続婦女暴行犯」

 ということにされたまま、短い一生を終わるということになれば、

「これほど惨めなことはない」

 といえるだろう。

 彼の惨めさや無念さというのは、もちろんのこと、

「今のところ、事実すら見えてこない」

 ということで、事件は、

「最初にもどった」

 というよりも、

「却って闇の中にある」

 といってもいいのではないだろうか?


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