第45話 『竹林の逢魔時』
その日、僕は完全に時間の読みを誤っていた。
京都・嵐山。最後にどうしても竹林の小径を歩きたくて、閉門間際の天龍寺を駆け足で抜けた。陽が落ちる寸前だったが、どうしても諦めきれなかったのだ。
竹林に足を踏み入れた瞬間、空気の温度が一段階低くなったような気がした。
竹の葉の間から差し込む西日は橙色を帯びて、地面に斜めの縞模様を描いている。
風が吹けば、長い竹の幹がわずかに軋み、葉がさらさらと鳴った。
あたりに人の気配はなかった。
喧噪の名残も、観光客の笑い声も遠く、聞こえるのは自分の足音と、風に揺れる竹の音だけだった。
──その静寂が、突如として“止まった”。
風も、葉擦れも、消えた。
音が吸い込まれたような静寂。
思わず僕は立ち止まった。
背筋にぞわりと冷たいものが走る。
逢魔が時──昼と夜の境が溶け合う、魔が潜む刻限。
子どもの頃に読んだ怪談が、頭をよぎった。
ふと、竹と竹の間に“それ”がいた。
和傘を差した着物姿の女。
だが、その顔は、どうしても見えない。
いや、見えてはいけないもののように、影のままだった。
まるで竹林の深みから、音もなく浮かび上がってきたような存在。
僕は喉を鳴らしながら、無意識に声をかけた。
「……すみません、道に迷ってしまって……」
声は竹林に吸い込まれ、返事はなかった。
そのとき、女の影がスッと横に滑った。
地面を踏んでいるようには見えない。まるで空中を漂う霧のような動きだった。
「……っ……」
僕は思わず一歩退いた。
耳がひりつくような静けさ。
その瞬間、周囲の竹がざわ……ざわ……と音を立て始めた。
だが風は吹いていない。
何かが、竹の間をすり抜けている。
見えない“それ”が、確かにこちらに向かっている。
心臓が早鐘のように鳴り、脚が勝手に動き出した。
全速力で走り出した。
視界が歪むほどの恐怖。
けれど道が終わらない。
どこまでも、同じような竹と石畳が続いている。
──足音が、一つ、増えた。
自分の靴音とは明らかに違う、すり足のようなもう一つの音。
振り返る勇気などなかった。
ようやく明かりのある通りに抜けたとき、僕は汗でぐっしょりになっていた。
その夜、宿に戻ってから、何気なくスマートフォンのカメラロールを開いた。
竹林の中で撮った、あのときの一枚。
そこに、僕のすぐ背後に立つ“影”があった。
和傘を差し、こちらをじっと見ているかのような黒い影。
顔は、やはり……写っていなかった。
いや、写っていなかったのではない。
“写らない”ようになっている、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます