第44話 『嵐山、わかれ橋』

 嵐山の渡月橋には、古くから“ある噂”がある。




 「カップルで来ると、別れる」




 観光地にありがちな軽口めいたジンクス。だが地元の人々は、半ば本気でこう言うのだ。




 「渡月橋だけは、好きな人と渡ったらあかん」




 僕がその話を知ったのは、ちょうど二年前の秋。大学時代から付き合っていた沙耶と京都を旅行したときだった。




 紅葉に染まる嵐山は、絵葉書のように美しかった。山肌は燃えるような赤と黄金に包まれ、桂川は鏡のように空を映し、川面をすべる風が肌に心地よかった。




 「きれいだね……来てよかった」




 沙耶は目を細めて笑い、僕の手をぎゅっと握った。




 渡月橋の中央で立ち止まり、二人で川を見下ろした。揺れる水面に映る私たちの影。背後には観光客の賑わいがあったはずなのに、その瞬間だけ、時間がふっと止まったように感じた。




 不意に、風が吹いた。




 カサリ、と何かが揺れる音が背後でした。


 振り返ると、すぐ近くを歩いていたカップルがいない。と思ったその瞬間、川の下に“何か”が沈んでいくような影が見えた気がした。




 「……ねえ、沙耶。渡月橋ってさ、何か噂とかなかったっけ」




 僕の問いに、沙耶は笑って首をかしげた。




 「あるよ。カップルで来ると別れるってやつ。でも、ありがちな都市伝説じゃない?」




 そのとき、僕はただ苦笑いを返した。




 でも胸の奥に、嫌な違和感が小さく残った。




 その旅の後、不思議なことが続いた。




 何もなかったはずの些細なことで口論になり、気づけば無言の時間が増えた。


 あれほど何でも笑い合っていた僕たちの間に、いつしか沈黙が落ちていた。




 別れ話は、あっけなかった。


 原因を明確にできないまま、一ヶ月後に僕たちは他人になった。




 ──ただ、あの日、渡月橋の中央で感じた“何か”だけが、胸の奥に残っていた。




 それから時が流れ、偶然、SNSである投稿を目にした。




 〈渡月橋で写真撮った翌週、振られました。橋の真ん中に誰もいないはずなのに、人影が映ってました〉




 添えられた写真を見た瞬間、背筋が凍った。




 カップルの背後、僕たちがかつて立っていたのと同じ場所──そこに、黒い人影があった。


 顔も輪郭もぼやけていて、足元はぼんやりと川の中に透けていた。




 その影の片手は、まるで誰かの腕を掴もうと伸びていた。




 別の書き込みには、こうあった。




 〈昔、渡月橋で心中した男女の霊がいてな、仲の良いカップルを見ると、自分らの代わりに“引き裂こう”とするらしいで〉




 それを読んだとき、僕は思い出していた。


 橋の中央、夕陽の中で沙耶が手を握ってくれた、あの一瞬。


 あのとき、確かに風が吹いて、僕の手元を誰かが引いたような──そんな気がしたのだ。




 嵐山の秋風は美しい。


 けれど、渡月橋を渡るときは、どうか手を離さないで。




 風が吹いたとき、それはただの風じゃないかもしれない。




 ……“誰かの手”かもしれないから。

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