第39話 『弥勒菩薩像のまなざし』
大学三回生の春、僕は太秦の広隆寺に足を運んだ。仏像美術のゼミで課題が出されていて、国宝・弥勒菩薩半跏思惟像を実見する必要があった。
けれどそれは、単なる見学では終わらなかった。
展示室に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。静けさが耳に痛いほどで、空調の音すら遠ざかる。
そして、彼女──弥勒菩薩像と目が合った。
微笑を湛えたその姿は、ただ静かにそこに座していた。それだけのはずなのに、僕の心の奥がぞわりと揺れた。
「……きれいだ……」
思わず声が漏れた。
右足を左膝に乗せ、右手の指を頬にあてる、あの優美な姿勢。
彫刻であるはずなのに、生きているとしか思えなかった。
その眼差しに捉えられてからというもの、僕は時間の感覚を失っていた。
帰り道、カメラに収めたはずの写真は、どれもピントが合っていなかった。
だが不思議と悔しくなかった。あの瞬間に見た美しさは、画像では伝わらないとわかっていたから。
その日から、僕は何度も広隆寺を訪れるようになった。週に一度、やがて二度、三度。講義や友人との約束を忘れても、弥勒のもとに通った。
ある夜、夢の中で彼女が現れた。
あの展示室のままの姿で、光に包まれ、僕の方を見ていた。
「お前は、なぜ来る?」
声はなかったのに、意味だけが直接、胸に響いた。
「ただ、見ていたいんです……」
そう答えたはずなのに、彼女は何も言わなかった。
それでも、少しだけ、微笑が深まったように見えた。
目覚めた後も、その笑みがまぶたの裏に焼きついていた。
僕は次第に現実の感覚を失っていった。
ゼミも休学し、バイトもやめ、気づけば太秦の安宿に暮らしていた。
日中は境内を歩き、夜は展示室のガラス越しに彼女を見つめた。
ある冬の日の夜、僕は展示室の前で立ち尽くしていた。
ふと、展示室の照明がふわりと灯った。
ガラス越しに、彼女がこちらを見ていた。
その右手が、ほんの少し、頬から離れかけていた。
僕は微笑んだ。
そして、翌朝から、僕の姿を見た者はいなかった。
警察は広隆寺周辺を捜索し、スマートフォンとノートだけが境内の端に落ちていた。
数日後、宝物館の監視カメラに一瞬だけ、ガラスの内側に人影が映ったという。
しかし、確認しても映像には何も記録されていなかった。
ただ、弥勒菩薩像の右手が、微かに角度を変えていた──とだけ、記録に残っている。
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