第28話 『新京極ロジウラ神隠し』
新京極通りは、いつも人が多い。観光客も若者も地元の人間も、昼夜を問わず行き交うこの界隈に、ひとつだけ妙な噂がある。
「裏にある“消えた路地”には、絶対入ったらアカン」
そう言ったのは、京都出身のバイト仲間・真理子だった。
「どういう意味?」
「新京極のどっかの横道、昔はあったのに、今は地図にも写真にも載ってへんねん。夜になると、たまに“戻ってくる”って言われてる。で、入ったら最後、出てこられへん。二度と。」
「神隠し、ってこと?」
「そやけど、戻ってくる人もいる。でも、どこか“おかしくなってるんよ。心が空っぽになってたり、言葉が喋れなくなってたり。とにかく、入ったらあかん場所なんよ」
真理子は、目を伏せながら言った。「私の兄が……それで、いなくなった」
僕は、あまり信じていなかった。ただの怖がらせだろう、と。
けれど、その話が頭から離れなかったのは、僕の大学の教授が同じようなことを口にしていたからだ。
「新京極には昔、辻堂があった。通りの途中にあった路地の辻には、古くから“何か”が棲んでると記録にあるんだよ。『夜叉辻』って呼ばれていてね。入ったら、帰ってこられない。まさに神隠しさ」
辻堂、夜叉辻、神隠し。妙に符号が合う。
気がつくと、僕はその“裏道”を探していた。
ある金曜日の夜、アルバイト帰り。
新京極を北から南に向かって歩いていたとき、ふと見慣れない細い路地が現れた。
赤提灯がぶら下がり、誰もいない。
その奥には、何か――見てはいけないものがありそうな気配が、あった。
地面は濡れておらず、雨も降っていないのに、石畳には水が滴る音が響いていた。
(ここ……地図にない道じゃないか?)
スマホのGPSを見る。確かに、その路地だけ、なぜか表示がぼやけている。
「……もしかして、これ?」
僕は吸い込まれるように、足を踏み入れた。
中は静まりかえっていた。
一歩踏み出すごとに、空気が重くなっていく。
民家が並んでいるように見えるが、どの窓も真っ暗で、人の気配がない。
赤い提灯は風もないのにゆらゆら揺れ、どこかで鈴のような音がしていた。
カラン……カラン……
(誰かいるのか?)
奥へ進むと、ふいに霧が立ちこめ、視界が曇る。
まるで空気そのものが変わったように、音が吸い取られていく。
――気がついたとき、僕は道に迷っていた。
戻ろうとするが、来た道がない。
代わりに、朽ちた鳥居が見えた。
その先に小さな祠。
でも、そこに供えられているのは花や酒ではなかった。
――人形。
しかも、目の部分だけが塗りつぶされた紙人形が、無数に吊されていた。
ぞっとして後ずさると、背後から声がした。
「ここ、知らん顔の子、久しぶりやな」
振り向くと、老婆がいた。
黒ずんだ着物に、手には籠。
籠の中には、真っ赤な林檎が三つ。
「お前さん、迷いこんだんやろ。けどここは、戻れへん場所や」
「どういう……ことですか?」
「ここはな、“選ばれた”人しか通られへん道やねん。忘れたいもんがある者、誰かを憎んでる者、運命を曲げたい者――そんな者が、吸い寄せられてくる」
老婆はニヤリと笑い、僕に林檎を差し出した。
「これを食べたら、元の世界には戻られへんけど、“忘れられる”で」
その瞬間、僕は思い出した。
確かに、僕は忘れたい過去があった。
いじめ、両親の失踪、恋人の裏切り。
でも、そんなことのために――ここに囚われていいはずがない。
「いらない。帰ります」
林檎を振り切った瞬間、祠の後ろから鐘の音が鳴った。
ゴーン……ゴーン……
視界が真っ白に染まって――
気がついたとき、僕は新京極の通りに立っていた。
時間は夜のまま。スマホの時計は、30分しか経っていない。
振り返ると、あの路地はなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように、建物がびっしり並んでいる。
息を整えて歩き出すと、前から真理子が歩いてきた。
「あんた……入ったん?」
僕は黙って頷いた。
「……あんた、ほんまに“あんた”?」
その言葉に、僕は答えられなかった。
なぜなら――
僕のスマホのインカメに映る顔は“少しだけ違う顔”だった。
目元が、どこか冷たく、口元が笑っていた。
――それ以来、僕は夢を見る。
赤い提灯の揺れる路地、目のない人形、そして籠を持った老婆の声。
「次は、あんたが“迎える”番やで」
京都・新京極の裏道には、時折、地図にない路地が現れる。
そこに入った者がどうなるか、もうわかるだろう。
次に吸い寄せられるのは――
あなたかもしれない。
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