第25話 『裏寺町の赤い階段』

 京都の裏通りには、「一歩間違えば迷い込む」路地が無数にある。


 中でも、四条通の南側――新京極と寺町通の間にひっそりと延びる“裏寺町”は、その名のとおり古い寺が連なる静かな道。


 だが、若者たちの間ではそこに、“絶対に登ってはいけない階段”があると噂されていた。




 私はそれを、「都市伝説まとめサイト」で初めて知った。




【裏寺町の赤い階段】


・日没後、裏寺町通りのどこかに現れる。


・階段は古く、赤く染まっている(ペンキではないという噂)


・登り切った者は“もう戻ってこない”


・ただし、どうしても行きたい過去がある者にだけ、見える




……中二病みたいな話だと思った。


 けれど、その夜、私はそれを“見て”しまった。




 夜の裏寺町は驚くほど静かだ。


 昼間はカフェや雑貨屋で賑わっていても、日が暮れると人通りはほとんどなくなる。


 私はそのとき、失恋して、どうしようもなく気持ちが荒れていた。


 五年間付き合った恋人に浮気され、LINEもすべてブロックされて、共通の友人にも距離を置かれた。


「もう一度やり直せるなら、あの日に戻りたい」


 それが、夜の裏寺町を彷徨っていた理由だった。




 その時だ。


 白壁に挟まれた細い抜け道の奥に、階段が見えた。




 赤い。


 まるで、血を何層にも塗り重ねたような、深い赤。


 階段は石造りで、苔むしていて、明らかに古い。


 けれど、周囲に明かりがないのに、階段だけが淡く光っているように見えた。




 私は、気づけばその前に立っていた。




「戻れるかもしれない」




 誰かがそう囁いた気がした。


 私は、一段ずつ登りはじめた。




 一歩。


 また一歩。


 階段は途中で折れて、ぐるりと螺旋を描くように延びていた。


 不思議と疲れなかった。ただ、心臓だけがどんどん早鐘を打つ。




 五段目で、恋人と最初に出会った大学のキャンパスが頭に浮かんだ。


 十段目で、ふたりで行った南禅寺の紅葉がよみがえった。


 十五段目で、喧嘩した夜、泣きながら一人で歩いた鴨川の風景が見えた。




 記憶が、階段に吸い込まれていく。


 そう――まるで、自分の過去を“階段に捧げながら”登っているような感覚だった。




 二十段目を踏みしめたとき、不意に、後ろから誰かの気配を感じた。




「……もう、戻れないよ」




 その声は、間違いなく“彼”の声だった。




 振り返っても誰もいない。


 けれど確かに、階段の下はもう見えなくなっていた。




 私は気づいた。


 これがただの階段ではないことに。


 ここは、後悔で染まった階段なのだ。




 やがて、最上段にたどり着いた。


 そこには、小さな木の扉があった。


 朱塗りの鳥居のような形をした、古びた引き戸。




 そっと手をかけた瞬間――


 背後から誰かが、私の手をぐっと掴んだ。




「ダメ。開けたら、もう全部やり直せなくなるよ」




 それは、もう一人の私だった。


 あのとき別れを選んだ、強い私。


 彼の浮気を知っても泣かなかった、冷静な私。


 未来を選ぼうとした、私。




 けれど、私は――それでも、過去に戻りたかった。




「もう遅いんだよ。過去は、あなたが壊したの」




 扉の先から、風のような声が吹き抜けた。


 そして、私はそのまま――




――気がつくと、裏寺町のベンチに座っていた。




 スマホの時刻は、夜10時13分。


 たった数分しか経っていないはずなのに、記憶はあいまいで、指先がかすかに血のように赤く染まっていた。




 手には、見たことのない小さな紙片が握られていた。




「過去を登る者に未来はない。


 階段は、あなたの罪”の数だけある」




 それ以来、私は裏寺町を通るたび、無意識に“あの階段”を探してしまう。


 そして、今でもときどき夢に見る。


 赤い階段。


 忘れたいのに、忘れられない記憶。




 あなたももし、京都の夜に赤い階段を見つけてしまったら――




 どうか、一段目を踏みしめる前に、思い出して。


 過去より、今の方が取り返しがつくってことを。


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