第16話 『神の蔵』

 松尾大社の裏手、鬱蒼とした森の奥に、古びた土蔵がひっそりと建っている。


 今では誰も近づかないが、かつては神事のために使われていたという。

 だが、神職たちはその建物について多くを語らない。

 ただひとつ、「決して扉を開けるな」とだけ言い残している。


 吉井大悟、三十六歳。

 フリーの民俗学研究家。

 神道系の文献に興味を持ち、京都の神社を巡っていた。



 彼が松尾大社に興味を持ったのは、「封じ神」という記述を見つけたからだ。


 それは神を“祀る”のではなく、“鎮める”という意味。

 祟る力を御神体として封じ込めた――つまり、怨霊を神格化したということに他ならない。


「神とは、本当に“善なるもの”なのか」

 そんな問いを持っていた彼にとって、松尾大社は格好の取材対象だった。


 ある晩、大悟は密かに社務所を訪ね、古くから奉職している神職・権藤(ごんどう)に話を聞いた。


 権藤はしばらく口を閉ざしていたが、やがて静かに語り始めた。


「むかし、この山に“紅(くれない)”という女がいてな。

 祟り神を鎮めるため、酒と一緒に……生きたまま封じられた」


「封じたのは、松尾の神やない。

 人間の都合や。――それがいちばん、恐ろしいんや」


 その女の魂は、今もなお蔵の中で“醸されて”いるという。

 月のない丑三つ時、森の奥から酒の香りと女の嗤い声が漂う夜があるのだと。


 禁忌に魅せられた学者にありがちな結末と言うべきか。

 大悟は、その土蔵を見に行くことを決意した。


 本殿の裏手に続く獣道を進み、苔むした鳥居をくぐると、土蔵が姿を現した。

 時代に取り残されたような黒ずんだ木の扉。

 そこに結界のように打たれているのは、酒造りで使う「注連縄」と「榊(さかき)」だった。


 だが、大悟は気づかない。

 そこに貼られていた「封印札」が、すでに何者かの手によって破られていたことに。


 扉を開けると、蔵の中には一本の巨大な酒甕があった。

 中は空洞のはずなのに、部屋には湿った酒の香りが満ちていた。



 甕に近づいたそのとき――


 ぽたり。


 天井から一滴、酒のような液体が大悟の頬に落ちた。


 見上げると、天井には、女の顔が張りついていた。


 血のように赤い唇。


 溶けるような笑み。

 長く濡れた髪が、しずくとなって落ちていた。


「呑んでくれるんやね……? わたしの、おさけ」


 甕の中から、白い腕がにゅっと伸びて、大悟の首を掴んだ。




 翌朝。

 社務所の神職たちが、何かに気づいたように森へ向かった。


 土蔵の前に、大悟の録音機だけが落ちていた。

 再生すると、ノイズ混じりの声が響いてくる。


「……神じゃ、ない。あれは、あれは……」

「人間が……生み出した……呪い……」


 最後に、女性の笑い声と共に、酒を注ぐような音が響いていた。


 その日から、松尾大社では再び「封じの儀」が執り行われるようになった。

 若い神職が小さくつぶやく。


「また誰か、蔵を開けよったんやな……」


 神と人、祀るものと祟られるもの。

 その境界は、思った以上に薄く、脆い。


 松尾の神が鎮めていたものは、

 果たして本当に“神”だったのか――

 それとも、

 怒り続ける、女の怨念だったのか。

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