第34話 『その夏、背中に甲子園を背負って』
――スコアボードには、8回裏の数字だけが光っていた。
“2-1”。
桜が丘が逆転していた。8回裏、風祭球児の渾身のタイムリーヒット。
小さな桜が丘高校が、名門・東都学院を相手に、ついに一歩前に出た。
そして、最終回。
9回表、東都学院の攻撃。
スタンドからは、応援団の太鼓と歓声が交錯していた。けれど、グラウンドの中心――マウンドには、静けさがあった。
風祭球児は、深く息を吸い込む。
胸の奥に、母の面影がよぎった。
「自分のために投げなさい」
そう言ってくれた、やさしい声。
「……三人で終わらせるよ。マウンド、預かった」
石原が静かに、球児の背中を押した。
「そのつもりだよ。頼むぜ、エース」
三島もまた、センターから拳を掲げて応える。
打席に立つのは、東都学院の2番バッター。
一発が出れば同点。誰もが緊張で喉を鳴らした。
――プレイボール。
初球、ストレート。空振り。
二球目、変化球でカウントを整え――
三球目、低めいっぱいのフォーク。
バッターのバットが空を切った。
「ストライーク! バッターアウト!」
ひとつ、アウトを積み上げる。
続くバッターは、東都の代打。力のある一年生。
だが、球児はまったく表情を変えなかった。
(甲子園が……ほんとに、すぐそこなんだな)
観客席では、千紗が祈るように小さな声で呟いていた。
「風祭くん……がんばれ。あと、ふたり」
二人目のバッターも、落ちる球に翻弄され、三球三振。
球場がざわつき始める。
そして――最後のバッターが現れる。
川島栄伍。
最終回、二死。
あと一人。
球児は、土を握った指を軽くすり合わせる。
乾いているようで、内側には汗が滲んでいた。
バッターボックスに入ったのは、川島栄伍。
東都学院のエース。かつて、球児と同じユニフォームを着ていた男。
観客席からの歓声も、ベンチの仲間の声も、遠のいていく。
マウンドとバッターボックス、そのわずか18.44メートル。
けれど、ふたりにとって、それは何よりも遠く、重い距離だった。
一球目:インローのストレート
石原がミットを低く構える。
球児は、静かにうなずく。
――ズドンッ!
ミットに沈む音が、内野に響く。
「ストライク!」
川島はバットを構えたまま、動かなかった。
打つ気はあった。だが、手が出なかった。
(あいつ……こんな真っ直ぐ投げるようになったのか)
不意に胸がざわつく。
かつて自分の“下”にいた存在だったはずだ。
なのに――今は、打てる気がしない。
マウンドの球児は、ほんのわずかだけ、呼吸を整える。
(まずひとつ。次だ)
二球目:外角高めのスライダー
石原が目線だけで合図を送る。
球児は軽く目を細め、フォームに入った。
球は外へと逃げるスライダー。
川島がバットを出す。空振り。
「ストライク、ツー!」
(くそっ、早かった……)
川島の握るバットに、力が入る。
このまま終わってたまるか。
自分はエース。甲子園を背負う存在。
それを、風祭に奪われるわけにはいかない。
一方で、マウンドの球児は目を伏せたまま、心を静めていた。
“あとひとつ”
言葉ではなく、ただそれだけを胸に抱きながら。
三球目:フォークボール
石原は、最後のサインを出す。
低く、深く。
球児は無言でうなずき、握ったボールの縫い目を指にかける。
落とす。
全ての感情を、白球に込めて。
川島はバットを握り直す。
目の前の男の手元から、白球が離れる――
スッと落ちる軌道。
分かっていたはずのフォーク。
だけど、その落差は想像よりも深く、遠かった。
――空振り三振。
「バッターアウトォーーー!!」
球場が、爆発したような歓声に包まれた。
川島は、その場に立ち尽くす。
しばらくバットを握ったまま、動けなかった。
(……やられた)
強がりも、プライドも、言い訳も、すべてが崩れる。
自分は、あのとき風祭を追い出した。
“チームのため”だと口では言っていた。
でも本当は、自分が怖かったのだ。
あの才能に、追いつけないと知ってしまったから。
そして今、甲子園の切符を手にしたのは――風祭球児だった。
(……完敗だ)
球児は、川島の目をまっすぐに見つめた。
挑むでも、見下すでもなく、ただ真っ直ぐに。
川島は、ほんのわずかに視線を逸らし、バットを置いた。
(ありがとう、風祭)
心の中でだけ、そう呟く。
風の音が、ひときわ大きくなった気がした。
そして――
球児は静かにマウンドを降りる。
ベンチから走り寄る仲間たち。
駆け出してきた千紗の目には、涙がにじんでいた。
だが、球児の背中は、静かだった。
その肩に、仲間の手が重なる。
背番号1のユニフォームは、土と汗でくたびれていた。
それでも――眩しいほどに、誇らしかった。
「ありがとう。全部、投げ切れた」
そう、誰にも聞こえない声で呟きながら。
風祭球児は、ゆっくりと空を見上げた。
勝った。
桜が丘高校が、ついに――甲子園出場を決めた。
マウンドの上に、駆け寄ってくるナインたち。
「やった、やったぞおおおっ!」
三島が、球児の胸に飛び込む。
「お前の背中に乗っかって、ほんとに来ちまったな、甲子園……!」
球児は言葉が出なかった。
視界が、滲んでいた。
――決勝戦、九回表。
最後のアウトを取った瞬間、球場が震えた。
白球がキャッチャーミットに吸い込まれたその刹那、観客席の空気が爆ぜたように揺れる。
「やったあああああっ!!」
「風祭ーっ!!」
「桜が丘、甲子園だあああっ!!」
応援席の生徒たちは、立ち上がり、跳ね、手を振り、叫び、抱き合った。
楽器を持っていた吹奏楽部の子たちも、譜面台を倒しながら拳を突き上げた。
女子生徒のひとりは、手に持っていたポンポンを思わず天に投げ、それが宙でくるくると踊った。
「風祭くん、ほんとに投げ切った……」
「夢じゃないよね、これ……桜が丘が、甲子園……?」
制服の袖で涙を拭う子もいた。
試合に出ていたのは、ほんの9人かもしれない。
けれど、この瞬間を待ち望んでいた生徒たちは、百人を超えてそこにいた。
その一番後ろで、ひとり立ち尽くしていた男がいた。
桜が丘高校校長・長谷川。五十六歳。
ふたつの涙の味
「……これは、もう立派な“学校の歴史”だな」
絞るような声で、長谷川校長はポケットからハンカチを取り出した。
額ではない。目頭が、熱い。
それに自分で気づいたのは、数秒遅れだった。
“野球部が甲子園に行けるわけない”――そう言われてきた。
長谷川自身も、内心ではそう思っていたことがある。
創立以来、目立った成績などなかった。
設備も、予算も、選手層も、名門校には到底敵わない。
だからこそ、「応援はほどほどに」と口にしたことも、一度や二度ではなかった。
だが、あのエースが現れた。
あのマネージャーが泣きながら頭を下げてきた。
あの監督が、教師免許ではなく“指導者の覚悟”を見せた。
そして、今日。
「……校長室の校旗、替えよう。新しい風を入れよう」
誰に向けたわけでもない小さな独り言が、喧騒の中に吸い込まれていった。
胸元の校章が、少しだけ熱くなった
長谷川校長は、ゆっくりと胸に手を当てた。
桜が丘高校のブレザーに縫い込まれた、白と青の校章バッジ。
今日ほど、このバッジが誇らしいと思ったことはなかった。
「ありがとう。おかげで……この学校の名前が、風になった」
その言葉に、涙混じりの笑顔がこぼれる。
その時、応援団の列にいたある生徒が──
「校長先生! テレビカメラ、来てます!」
「マジっすか! インタビュー、インタビュー!」
何人かが長谷川に駆け寄り、肩を叩いた。
「校長、泣いてました? 泣いてたでしょ~?」
長谷川はごまかすように笑いながら、「泣くわけないだろう」と答えた。
だがその目の端には、まぎれもなく光るものが残っていた。
その涙は、敗北の無力感ではなく、希望という名の痛みによるものだった。
――この日、桜が丘高校は甲子園を決めただけじゃない。
生徒の声と、教師の想いと、校章の重みが、確かに一つになった日だった。
グラウンドの端、ベンチ前で――千紗が、小さく拍手していた。
目に涙を浮かべながら。
ポケットの中で、彼女のメモ帳の最後のページが少しだけ覗いている。
『がんばれ、風祭球児。大好きだよ』
それは、まだ本人には渡していない。
けれど、風に乗って、きっと彼の背中まで届いていた。
川島は、黙ってバットを置いた。
マウンドに立つ球児を、見つめる。
(結局、お前は……逃げたんじゃなかったんだな)
その背中には、仲間たちの夢と、努力と、あの日の涙すべてが乗っていた。
その夏、風祭球児は――
甲子園という光の頂に、自分の背中で立った。
■
九回表、ツーアウト。
スコアブックをつける飯塚の手が、ぴたりと止まっていた。
手汗で湿った指先。
鉛筆の芯は、もう何度も折れていた。
それでも彼は、グラウンドから視線を離さなかった。
「これで、最後だ」
スコアブックの左上。
そこには、すでに記されていた得点欄──「2‐1」。
八回裏、風祭のタイムリーで逆転してからというもの、飯塚の筆記はほとんど止まっていた。
打者、川島栄伍。
球児が東都学院を辞めるきっかけを作った張本人。
飯塚はそのことを知っていた。
けれど──いま、マウンドに立つ背番号1を見て、彼は確信していた。
「勝つのは、風祭球児だ。勝たせるのは、俺たちだ」
三球三振。
ミットが鳴ったその瞬間、球場が、風を飲み込んだように揺れた。
「……勝った」
飯塚の目の奥が、じんと熱くなる。
けれど彼は、泣かなかった。
いや──泣いている暇がなかった。
手にしたスコアブックを、そっと膝に置き。
丁寧に、いつも通りの筆致で、最終打者の記録を記す。
>「9回表:三振」
次に、その下に書き加えた。
>「桜が丘高校、初の甲子園出場決定」
ペンが止まる。
しばらく、飯塚はページ全体を見つめていた。
勝利のページ。
けれど、そこには誰のヒーローインタビューも、ドラマチックな見出しもない。
あるのは、ひたすらに整った記録。
球児の球数、石原のリード、小野寺の守備、三島の声。
藤木のバント、滝川の守備、浜中のガッツポーズ。
みんなが、ここにいる。
飯塚は静かにページの余白をめくり、背表紙の裏にこう書いた。
「2025年 夏 桜が丘高校、甲子園出場。
──みんなで掴んだ“この1ページ”を、忘れないために」
ページの端が、風でふわりと揺れた。
ベンチの歓喜の声が上がる中。
飯塚は一歩だけ遅れて立ち上がった。
胸の前で、スコアブックをぎゅっと抱きしめるようにして。
「俺の仕事も……悪くなかった、よな」
初めて記録した完全試合のページと、
初めて記録した“甲子園”のページ。
その二つが、この夏のすべてだった。
■
九回表、二アウト。
ベンチの中は、誰も言葉を発していなかった。
修司は、スコアボードを見上げるでもなく、モニターをのぞき込むでもなく、ただ静かにスコアメモを開いた。
彼がそこに書いていたのは、配球でも打順でもない。
ただの、一行メモだった。
「風祭球児。ここまで、よく来たな」
試合前からずっと、誰よりも冷静にふるまっていたつもりだった。
けれど、背番号1がマウンドに立つその背中を、三者三振で締めくくろうとするその姿を、目の前にして。
修司の指先は、かすかに震えていた。
“あいつ”が東都学院を辞めたあの日のことは、いまでも鮮明に覚えている。
あのとき、修司はまだ「ただの野球バカな父親」だった。
寮から逃げるように帰ってきた球児は、無言でユニフォームを脱ぎ、風呂にも入らず、朝まで部屋にこもっていた。
翌朝の食卓で、一言だけつぶやいた。
「野球、もういいかなって思った」
あの瞬間、父親として、何を言えばよかったのか。
「続けろ」とも、「辞めるな」とも言えなかった。
ただ黙って味噌汁をすする息子の横で、修司は初めて“監督じゃない、自分”を呪った。
それでも球児は戻ってきた。
桜が丘の門をくぐり、小さなボロいグラウンドで、誰よりも静かにキャッチボールを始めた。
その背中には、「特別」なんて言葉はもうなかった。
ただ、汗と土と、仲間の声だけがあった。
そうしていつしか、誰よりも努力する選手になって。
誰よりも“信頼される”投手になって。
いつのまにか、背番号1を任されて。
今──甲子園を懸けたこのマウンドの上で。
最後の打者、川島栄伍。
かつて球児の心を壊した張本人が、いま、目の前に立っている。
修司は立ち上がらない。
声も出さない。
ただ、スコアメモの裏に、もう一度ペンを走らせた。
「あの日の背中じゃない。“いま”のお前が、全部を超えている」
打者が空を切り、フォークボールがミットに収まった瞬間。
球場が揺れるほどの歓声の中で、修司は静かに帽子をとった。
「背番号1の向こう側に、ようやく辿り着いたな」
そうつぶやいて、目を細めるその姿には、もう“監督”の顔はなかった。
あれは、誇り高き、ひとりの“父親”の顔だった。
■
──2025年・夏。
試合が終わったあとのスタンドは、なぜかとても静かに感じた。
拍手も歓声も、まるで遠いところで鳴っているみたいで。わたしの耳の奥に残っていたのは、ミットに吸い込まれた**最後の“フォークボールの音”**だけだった。
気づいたときには、立ち上がっていた。
たぶん、誰よりも早く。自分でもびっくりするくらい、体が勝手に動いた。
グラウンドの真ん中。
ユニフォームの背番号【1】が、何度も何度も、仲間たちに叩かれていた。
その背中は、いつのまにかすっかり「ヒーロー」になっていて。
でも──わたしだけは、きっと知ってる。
風祭球児は、ずっとひとりで投げてたわけじゃない。
その背中には、三島先輩の声があって、石原くんのリードがあって、浜中くんの声援があって。
もちろん、わたしのささやかな“観察日記”も。
あとでベンチ裏に戻ったとき、球児くんとすれ違った。
泣いてたかもしれないし、泣いてなかったかもしれない。
ただ、いつもの「おかえり」って言葉が、どうしても喉から出てこなくて。
代わりに、手帳の余白に、こう書いた。
「甲子園、行こう。あなたと。」
たったそれだけ。
だけど、その一行を書くのに、たぶんわたしは、三年間かけてきたんだと思う。
試合のあと、球場の外に出ると、夏の空はまだ青くて。
ふと吹いた風が、手帳のページをさらさらめくっていった。
ページの隅っこに、小さく書き添えておいた“観察日記のタイトル”がちらっと見えた。
『観察日記・その22』──風祭球児、ヒーローになる。
でも本当は、きっとこう書くのが、いちばん正しい。
『観察日記・その22』──風祭球児、わたしのヒーローになる。
■
夜。
桜が丘高校が甲子園初出場を決めたその夜、球児は一人、自宅の庭先に出ていた。
空は澄んで、星がちらちらと瞬いている。
夏の夜は、意外なほど静かだった。
遠くで聞こえるのは虫の声。街の喧騒はもう、ここには届かない。
試合の余韻。チームの歓声。千紗の笑顔。
全部が一度に押し寄せて、いまも胸の奥でざわざわと暴れていた。
──勝ったんだ。俺たちは、甲子園に行く。
でも、そんな“未来”の話じゃない。
球児がこの夜、思い返していたのは“過去”のことだった。
東都学院に入ってすぐの春。
母は、病室のベッドの上で、まるで何かを悟っているかのように、微笑んでいた。
「ユニフォーム、似合ってるわね」
そう言って、白く細くなった手で、胸元の刺繍を撫でていた。
その言葉が、いまも胸に残っている。
応援には来られなかった。入学式にも来られなかった。
けれど、母は球児の“野球人生”のいちばん最初に、確かに立ち会っていた。
──あのとき、ありがとうって言えばよかった。
ふと、ポケットから小さな紙片が落ちた。
それは、かつて母が最後にくれた短い手紙だった。
「風祭球児へ
夢の途中でくじけそうになったら、空を見なさい。
まっすぐな空の下に、あなたの道がある。
誰かの背中を追わなくていい。
あなたは、あなたのままで、走ればいい」
涙は、出なかった。
けれど喉の奥が、ひりひりとした。
家の中から、父の咳き込む音が聞こえた。
元プロ野球選手であり、いつも厳しくて、笑わなくて。
母が亡くなってから、父は球児のことを、正面からはほとんど見なくなった。
でも──
その背中は、ずっと見ていた。
仕事から帰ってきて、黙ってグラブを磨いている姿。
野球中継を見ながら、そっとメモを取っている手。
「……今日の試合、録画してるだろ。見てくれたかな」
それだけが、どうしても気になっていた。
球児は、空に向かって小さく呟いた。
「お母さん。甲子園、行けることになったよ」
風がふわりと吹き抜けた。
木々の葉が揺れた。
空は変わらず、澄みきっていた。
そのまま玄関を開けると、廊下の奥から父の声が聞こえた。
「……球児。お前のフォーク、悪くなかったな」
一瞬、動きが止まった。
振り返ると、居間の扉が半分だけ開いていて、父がテレビの前に座っていた。
何も言わなかった。
けれど、心がふわりと温かくなる。
“ありがとう”を、全部口にするには、まだ時間がかかるかもしれない。
けれど、今日くらいは。
「……俺、野球、やっててよかった」
誰にでもなく、ぽつりとつぶやいたその言葉が。
夜の空に、優しく溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます